ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

ペニシリンアレルギーの話

勉強したら追記していきます

 

 結構ペニシリンアレルギーで困ることが多くて、ふわっとした病歴で、絶対にTENやSteven Johnson、DIHSのような重症なものでなく、「あたまがふわふわした」とか「嘔吐した」とかそういうアレルギーとしてはぱっとしない病歴で皮疹もなくて1型アレルギーとしても典型的ではないな、という症状の場合にはペニシリン以外のβ-ラクタム系ならば良いかな、という方針で診療していた。じゃあ皮疹はでたけどペニシリン系抗菌薬によるものかどうかは不明とか、明らかな膨疹だとかだとどうなのだということや、セフェムなら良いのかとか、こういう時はカルバペネムもやめておこうかなとかははっきりしない。また、自分の診療が正しいのかどうかというと今一つ自信がなくて、周りに聞いてもうーんはっきりしないなら意外とホンモノのペニシリンアレルギーは少ないっていうし使ってもええんやない、ぼかあセフェムくらいにしているな、とかザックリした正しいのかどうか分からないことを言われるだけだった。そんなこんなで、いつもなんだかもやもやしていた。先日、院内勉強会の症例発表で普段は研修医が担当することが多いのだが、なぜか僕に打順が回ってきたのでペニシリンアレルギーのお話を調べることにした。あとちょうどTwitterで偶然JAMAにペニシリンアレルギーのレビュー論文が出たよというツイートを見かけたから。

 どうやら一般に、市中の人々では 7-10%でペニシリンへのアレルギー歴を申告しているようで、これが入院患者になると20%もの割合で申告するらしい。じゃあこんなにたくさんの人に本当にペニシリン系を避ける必要があるのかというと、まあもちろんそんなことはなかったりする。実際いわゆる自称ペニシリンアレルギーの人々のうち、90%の人々は実際にはペニシリンの使用は問題ないとされている。また、自称ペニシリンアレルギーの方で皮膚反応試験で陽性となる患者は 1-8%に過ぎない。(これについて、皮膚反応試験の感度特異度はどうなんだという話も当然でてくるだろう。つまり、皮膚試験で陰性なら除外して良いのか、あるいは陽性であれば今まで申告されていなくても避ける必要性があるのか、という話。これについては後述するが、本質的にはd-dimerが陰性なら肺塞栓を除外してよいのかとか、インフルエンザ迅速検査が陰性ならインフルエンザではないのかとか、そういうのと同じだ。検査前確率抜きにある検査があらゆる場面で有効かどうかを考えるのは、そもそも問いの立て方が誤っている。)

 ペニシリンアレルギーについて、実際の有病率との差が大きい理由としては、下痢や嘔吐などの副作用や服薬と関係ない偶然の出来事をアレルギーと患者本人が誤認し、実際の症状がどうたったのかということを確認されないままペニシリンアレルギーとして処理されているという説がある。まあ確かに抗菌薬内服すれば下痢にもなろう。また、アモキシシリン内服で結構嘔気・嘔吐がでることがあるようで、これも別にアレルギーではないのだがそんなの患者はわからんだろう。患者の申告数に比較して実際には有病率がより少なく、これら全ての患者のペニシリン系抗菌薬やセファロスポリン系抗菌薬、またカルバペネム系抗菌薬を避けることは現実的ではなく、コストの問題や抗菌薬の適正使用の観点からも問題になっている(というのだが僕としてはそこで考えることが大変、何かprediction ruleみたいなものはないのかな、と思ってしまう)。(1.2)

 初診の患者の自称ペニシリンアレルギーの場合には、どこまで避けるべきなのかを判断することがその場で求められるのだが、手元に診療アルゴリズムがないと、そこで外来がストップしてしまうこととなり困ってしまう。Suzanneらがペニシリンアレルギー疑いの患者に対して、まずはアレルギー 歴の問診を実施し、アレルギーらしさと重症度、アレルギー専門医がいるかどうかで投与をどこまで避けるべきかを決定するアルゴリズムを提案していて、個人的にはこういうのを使うとひとまず対応できて良いのかなと思う。実際には僕の冒頭で述べた診療スタイルと大きく変わらないのだが、やはりえらい先生のレビュー論文といった後ろ盾があると嬉しい。

 具体的には、アレルギーらしさに乏しい下痢や嘔気のみの病歴である場合にはペニシリン系も使用可能とする。次に曖昧またはアレルギーらしい病歴でアレルギー専門医へのコンサルトがすぐにできない場合(このパターンが特に救急外来では殆どだろう)にはアレルギー歴の重症度によって、重症であればβラクタム系全般を避け、軽症であればペニシリン系のみ避けるというおおまかな初期対応となっている。(2) このアルゴリズムに乗るためには自称ペニシリンアレルギーの病歴がある場合にはより詳細に病歴を聴取しなくてはならなくて面倒といえば面倒だし、詳細な問診ができるのはある程度病状の落ち着いた人に限られるだろう。(あと、敗血症性ショックに関して言えば、ややアドバンスだけれど、詳細な病歴聴取が困難なことが多いし、急いで広域抗菌薬をいかなくてはならないのでペニシリンアレルギーだった時のフォーカス別の抗菌薬もあらかじめ決めておいた方が良いでしょう、という話を以前『ただいま診断中』のSKMT先生がしていた。考えている時間がないものはなるべく覚えておくべきなんだけれど、ペニシリンアレルギーとかになると自称の有病率の多い割にあまり大々的に扱われないテーマである印象で、研修医時代には先に痙攣重責の初期対応とかACS脳卒中初期対応を暗記することがどうしても優先になってしまうのは仕方ないかなと言う気もしている。)実際ひと手間あって面倒だけれど、病歴を聴取しておけば、今後永遠にペニシリン系抗菌薬を避けなくてはならない状態から開放されるし、次回救急外来出会った医師が抗菌薬の選択に頭を抱えることがなくなるかもしれない。(4)

 何をきけばいいんだということについて、具体的には、量や使用期間、投与から症状出現までの時間、どのような症状が出現したか、投与経路、皮膚反応試験などの試験歴があるか、ペニシリンアレルギーへの治療に反応したか、その症状が出現した 時に他の薬を使用していなかったか、他の抗菌薬への反応はどうかを問診しましょうと言われているよう。(1.2)

以下に文献(1)の表とその解説のざっくりとした拙訳を示す。一応、ここに示す文献(1)が最新版のレビューだし、権威に従順な僕はJAMAとか書いてあるとすぐに信じてしまう。孫引きはしていないので、この記載がどの程度確からし臨床試験に基づいて決定されているのかは僕には判断が付かないことを申し添えて置く。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■それっぽくない時とその対応

病歴:アレルギーらしくない症状単独(胃腸症状、頭痛)、発疹を伴わない皮膚掻痒症、10年より前のエピソードでIgEからみの症状(かゆいとか、あかくなったとか、蕁麻疹、血管浮腫といった皮膚症状、鼻炎、喘鳴、呼吸困難といった呼吸器症状、心血管系の症状、消化器症状)ではない。(僕の個人的なコメント:しかし胃腸症状がここでどちらにも挙げられているのは一体何なのだ? アレルギーっぽい胃腸症状かどうかという話なのかな)

対応:使用可、患者希望で観察下に経口のAMPCチャレンジ実施してみても

■中等度それっぽい時とその対応

病歴:蕁麻疹、またはそれ以外の掻痒感のある皮疹、IgEからみの反応を示唆するエピソードがあるがアナフィラキシーの病歴ではない。

対応:皮膚試験後、陰性ならAMPCチャレンジ。アレルギー専門医への紹介を検討。

※ただし、ここに当てはまるとしても安定していない患者や妊婦に対するペニシリン投与はハイリスクに準じて考える

皮膚試験が陰性の時、この場合には95%の確率で投与が安全と言え、これに経口のAMPCチャレンジを組み合わせると100%安全とされる。皮膚試験が陽性であれば、この場合には経口負荷試験は行わない。

■ハイリスクっぽい時、その対応

病歴:アナフィラキシー、皮膚試験陽性、再発歴あり、複数のβラクタム系に反応する。

対応:アレルギー専門医に紹介または脱感作を行う。

 ---------------------

 あと気になるのは、上で少し触れた敗血症性ショック+ペニシリンアレルギーの状況だろう。おそらくここで書いたリスク別対応ではハイリスクっぽい人にあたるのだと思う。(1)の文献には緊急時の対応の記載には乏しいから、(2)を参考のそれっぽさに応じて、ペニシリン以外のβラクタムなら可とするか、すべてのβラクタムを避けるかどうかを考えるべきだろう。個人的にはここでのアズトレオナムの立ち位置はよくわからない。Ⅰ型であれば避けた方が良いという記載をどこかで見かけたような気もするが自信がない。知っている人がいたら教えてください。

 上の症状についての追記として、出現までの期間や症状がアレルギーらしいかについては、ペニシリンアレルギーの症状について知らないとそれっぽさも分からないだろうからざっくりと説明。教科書的な知識で面白くないのだが、ペニシリンアレルギーも他のアレルギーと同様に、Ⅰ~Ⅳ型 に分けられる。Ⅰ型アレルギーは暴露後 1時間以内に症状が出現する。Ⅰ型アレルギーといって僕らが嫌だなと思うのは最も重篤アナフィラキシーだと思うのだが、ペニシリンによるアナフィラキシーの可能性は 0.01~0.05%とされていて、そんなに高いわけではないし、死亡に至る可能性に至っては 0.001~0.002%と非常に稀。さらに一度アナフィラキシーがあったとしても 10 年後には 20%程度しか残っていない。ハイリスク群にはなってしまうけれど、一度アナフィラキシーになったから実際に使用するとまずいかというとまた別問題のようだ。また、II 型~Ⅳ型のアレルギー(溶血性貧血、免疫複合体が関与する血清病、糸球体腎炎、血管炎、多形 紅斑、Stevens-Johnson 症候群や中毒性表皮壊死症、薬剤性過敏性症候群)の既往がある場合にはペニシリン系薬剤の投与は禁忌になる。が、これは言われるまでもないかなという気もする。Ⅱ~Ⅳ型に関してはどれも投与後数日以降に現れる。ペニシリンアレルギーの危険因子とされるものには、非経口投与・局所投与、他の薬剤に対するアレルギー歴、ペニシリンへの暴露歴が多いことなどが挙げられる。(3) American Academy of Allergy, Asthma, and Immunobiology の提言では、ペニシリンへのアレルギー 歴のある患者への皮膚試験の実施が安全性、治療の転帰や治療コストの削減に有用であることから推奨されている。(4)一方で、本邦においてはかつてすべての抗菌薬投与患者に対する皮膚試験を行なうことが推奨されていた。しかし、このルーチン検査により「多数の偽陽性例が発生しているものと推測され、多くの 感染症患者が適切な抗菌化学療法の恩恵に浴する機会を失っていたものと推測された」との見解が示され、厚生労働省が同様の勧告を出し、国内の皮膚試験薬剤の販売が中止になった経緯があるよう。(5)ただ、この国内外の推奨の格差は当然、検査自体の不備によるものではないだろう。どんなに優秀な検査も偽陽性率は検査前確率に依存するために、これはおそらくルーチン検査としたことが問題だったんでしょうね。(このあたりについては以前の記事を:セワシ君、イマ・ココ、ツララとインフルエンザなどに関して - ぶたびより)少なくとも僕の病院では、あまり皮膚試験は行なわれていなくて、この現状にはかつての無駄に頻用されていた検査からの過剰な揺り戻しがあるのではないかなと思っている。 検査の感度特異度が良くても、検査単体で確定診断をしようとするといけてないことになってしまう例は多い。インフルエンザは流行期でそれっぽい人には偽陰性が問題になるし(本当に問題になることは少ないだろう、なぜなら健康な成人におけるインフルエンザはそもそも自然治癒するから抗インフルエンザ薬の適応にならないからだ。しかし僕はこの話をするたびに、感染症内科の青木眞先生が健康なインフルエンザ患者に対して唯一抗インフルエンザ薬の処方を勧奨したのが自分がインフルエンザに罹患した時だった、というエピソードを思い出す、本当はどうかは知らないけれど。)実際には、皮膚試験も上記に示したように、リスクを層別化して皮膚試験を行う対象を絞り込むことが大切なんでしょうね。肺塞栓や大動脈解離をあんまり疑っていない時にd-dimerが陰性なら否定できるとか、そういうのと同じ話だ。検査前確率を決めるには病歴と身体所見しかない。そういえば、12月に僕の数少ない友達でドチャクソ優秀な研修医が神奈川の病院でAll Nippon Physicalという身体所見の勉強会をやるので是非興味のある人は参加してみてくださいまし。URLを貼りたいのにコピーしても貼れない!! キレそう!!!

 

【参考文献】

(1)Erica S. Shenoy et al: Evaluation and Management of Penicillin Allergy. JAMA. 2019;321(2) 188-199.

(2)Suzanne S. Teuber et al: Overview of penicillin Allergy. Clin Rev Allergy Immunol 2012;43 84-97

(3)Torres MJ. Et al: The complex clinical picture of beta-lactams, carbapenems, and clavams. Med Clin Nourth Am. 2010 Jul;94(4)805-820

(4)Joint task Force on Practice Parameters, American Academy of Allergy, Asthma and immunology, American College od Allergy, Asthma and Immunologu, Joint council of Allergy, Asthma and Immunology. Drug allergy: an updated practice parameter. Ann Allergy Astma Immunol. 2010 Oct;105(4):259-273

(5)日本化学療法学会雑誌 2003 Aug;51(8) 497-506

やさしさの理由

 天気予報は雨。午後になってから窓のない部屋にこもっているから外の天気を感じられない。エアコンの音とたまに廊下を行き来する人の足音が届くだけの狭い当直室でずっと突然指導医から頼まれたケースレポートを休みの日に書いている。適度な時間になったら近所の温泉にでも行くつもりが、気が付いたらもう20時を回っていたから諦めることにした。

 自分の機嫌を自分でとりましょうよ、といった主張を最近ツイッターでよく目にする。僕は単純な人間なので、温泉に行って疲れを流して、美味しいものを食べて(それはこってりしたカップラーメンでも半額の戻りガツオをニンニク醤油につけて食べるのでも良い)、一杯のめればそれで何とかなってしまう、あと睡眠。他人に当たってくるタイプの看護師さんに僕についてる研修医氏が困っているのを見かけた。機嫌を自分でとれないというのは人格が未熟だからに他ならないし、それなりの年齢になってもまだ人格が未熟なのだとしたらそれは病気に近い。周りの優しさによって社会生活に困難が生じていないことで、何とか診断名が付かずにいられているだけだ。

 かつて僕が精神科実習中に、1週間に2度も財布を失くして交番に届けられていたこと、大会をダブルブッキングしてしまったこと、宿題を失くすから定期テストの出来が悪くて平均評定がすこぶる低くてどこの推薦ももらえなかった話などをして、社会生活を送っていく自信がまるでなく、きちんと診断されて適切な薬を処方されればより日常が円滑に進むのではないか、と指導医に提案してみたことがあった。障害の有無というものはそんな特性があっても結局のところその個人が社会生活を送れているのか、にかかってくるので、君はそれで何とかやってこれているんだからいいんじゃないの、というところに落ち着いた。周囲のやさしさがないと生活が困難だなんて困ったナーと思いつつも。

 先日、総合診療科専攻医の2年目の方が書かれている文章(色んな意味で死を恐れた私へ|ていねこ|note)を目にする機会があった。総合診療科なんてくそニッチな専門科(というとそもそもそんなものは専門科ではないと難色を示す人もいるけれど)を選んでいると、近場の年代の人が何を考えて日々を生きているのかな、なんてことが気になることもある。僕はまったく優しい人間ではない自信があるので、こういう素直な人の素直な文章に触れると、以前は小馬鹿にしていたかもしれないし、今になってみると悲しい気持ちになってくる。

 生育歴を振り返ってみても、どうしてだかさっぱり分からないのだが(そしてその説明のつかなさに果てしないもやつきを感じるのだが)、素直なやさしさというものに(ひょっとしたらそれを人前で公言することに)いやらしさを感じて、非常に強い抵抗がある。そうでない人間が敢えて「優しい人間ではない自信がある」なんてセリフをネット上で夜中に書くはずもないことがその何よりの証左である。そういうタイプの自慰行為が好きなんだって素直に言ってくれよ、気恥ずかしいのか、とかね。

 でもおそらくこの先生は本当に、それが承認欲求か自己実現か何のためかは知らないけれど、真にやさしさから仕事をしているのだろうな、と何となく思う。そもそも、承認欲求だとか自己実現のためだとかいうと、内的な目的が先立つ印象があるけれども、それは利他的行為に関するいやらしさを受け止められないひねくれた人の言葉なのかもしれないし、素直でないのは僕なんじゃないのかね、という話になってくる。そうなると、僕ひとり素直でなくて、仕事に没入できないシニカルで浅薄な人間みたいで、ちょっとばかし哀しい。

 利他的な行為に関して、ハミルトン則というものがある。大学の一般教養はほとんど出席していなかったのだが、この話だけ何となく覚えている。自分で説明するのも面倒なのでwikipediaからちょこちょこ引用していく。この話のためには、まず血縁度について説明しなくてはならない。「ある個体が稀な遺伝子Aを1つだけ(ヘテロで)持つとする。有性生殖によって、子には半分の遺伝子だけが伝わるので、その子が同じくAを持つ確率は0.5である。」この時に「親からみた子の血縁度は0.5となる。」といった感じで、血縁度を計算し、この血縁度や個体数が自分の生命やその危機の可能性の大小を考えて、利益の大きい動きをする、といったようなものである。これが実際どの程度正しいのかは知らないけれど、真に優しい人が自分が真に優しい人間であると表明することよりも、よほど確からしいように感じてしまって、まったく自然科学的ではないのだけれど、何の批判的検証やその批判的吟味もしていないのに、何となく信じている。だから、これは僕にとって一種の宗教に他ならない。正しさを批判的に吟味していないのに気分の問題から信じてしまうものは決して自然科学ではなく、むしろ宗教の領域に近い。

 結局のところ、やさしさの表明に僕は耐えられないだけなんだ。それはきっと今まで誰かのやさしさに背負われて社会生活を送ってきたことを、その人の純粋な優しさからではなく、何かしら優しさ以外にそうせざるを得なかった理由から説明したいことの裏返しなのかもしれない。それってなんだか意地が悪いような気がするな。

 やさしさの理由は何でもいいけれど、僕も僕なりに愛ある診療ができたらなと思うし、なんか上司に無茶ぶりされた症例報告をこんな時間まで休みの日で明日当直だというのに病院で書いていた。たまには僕も優しさを。

 

追記

なぜか日記のタイトルに見覚えがあるなと考えていたら、イーガンの短編小説に「幸せの理由」というものがあったからだと思い出した。面白かったはずなので気が向いた方は是非。

限界高齢者の話

 もう死ぬんでいいよ

 と話す超高齢者に何度僕はCVC(クソ太い点滴)を挿入してきたのだろうとふと考えると暗い気持ちになってくる。話せないレベルの人でも暴れて抗おうとするが、必要な処置ですからねと押さえつけてしばりつけながらいれたりする。別に必要じゃないよなあと思いながら。せん妄老人のうめき声がそこここに響く病棟に入って回診をする。清潔感ある新しい病院であっても朝の処置時間には糞尿の臭いが立ち込める。枯れ枝のような生気のまるでない高齢者や永遠に自分の唾液に溺れている高齢者がうつろな目で天井をみつめたり寝たりしている。もう少し元気がある過活動型せん妄の患者さんはスタッフステーションで車椅子に縛り付けられて怒号をあげたり、拘束衣を切ろうともがいている。また、おとなしい時は塗り絵をしたりしている。たまに些細な所作から元の人格が透けて見えたりするとなんだか切ない気持ちになる。絶え間なくアラームが鳴るが、アラームの閾値が不適切に低いので誰も危ない状況だとは考えずにアラームを急いで見に行くことはしない。もう年なので侵襲的な処置は別にやらなくてもと言う家族もいれば年金が高いのか医療行為自体とその先に対するイメージが希薄なのか何なのか分からないが全部やってくださいと話す家族もいる。全部ってこういうことだよ、という話をするが遠く離れた世界のことのように聞こえるのか理解してもらえないこともしばしばある。おそらく境界域くらいの知的障害者の数は僕らが普段感じているよりずっと多い。我々って年を経るごとに職種や階層が別れていき、自分と均質な人間と多く付き合うようになるのだが、医療職に関しては働き始めた瞬間に誰とでも付き合うことになる。こういう知性の階層のギャップに気がつかないタイプの人間は一定数いて、他者の知性に対して過剰な期待をしているが、思っているよりずっと周りの人間は論理的な思考や抽象的な思想というものに対して鈍感だ。とはいえ、田舎だからか大抵の患者さん家族からは病状のすべてを理解するよりも医療者の思うベストに沿うのがベストだと思います、というような思想を感じる。この手の病状説明のことをinformed consentと呼んでICのセッティングしておいて、などと話すがこれは原義から遠く離れた父権主義的病状説明と意思決定を指しているのが実情だろう。

 先日スコセッシの映画の『沈黙』を観た。ハリウッドなのにつっこみどころの少ない良くできた日本の情景描写がきれいだった。茅葺き屋根にしたたる雨水が良い。長崎、キリシタン弾圧の中、布教にきたイエズス会の神父の話だ。弾圧される人々をみながらどうしてこんなにも苦しまなければならないのかを思い悩み、自分が非キリスト教徒である野蛮人の日本人を正しく改宗させずにいれば人々は死なないし、どうしたら良いのか、神さまどうしてあなたは沈黙しているのかというような話でした。日本人にはキリスト教が馴染まないし、布教しても完全に彼らの思うキリスト教ではない異質な何かに変貌してしまう、この文化圏には合わないのかもしれないね、みたいなことも言及されていた。

 ツイッターでニューヨーカーが電車の中で歌い始めて、乗客もまざってみんなで合唱しはじめる、といった動画が流れていた。意識高い系のツイッタラーはニューヨークのこういうところが好きなんだ、と話していて感情の表出や見知らぬ人々との交流が好きなヨウキャさんなんだなあと考えたりした。国民性という言葉を聞くと、文化と脳について考えてしまう。おそらく我々は電車で誰かが歌っていても統合失調症なのかなと思うことはあっても混ざって合唱したりしない。これは純粋に文化の問題だけど、それが脳の器質的な差からくるのか、島国だったり温帯だったり単一民族が多くを占めているといった環境の影響なのか、そして後天的に外的な文化的なシャワーを浴びることで脳に器質的な変化が起こって国民性と言われるものが形成されるのかみたいなところを示した研究はないんだろうか。脳の器質的な差を見るのは難しいかもしれない。けれども、海沿いや山奥や都市部といった差と人格の影響があるのかとか、それが文化圏によらず日本の内陸とキルギスボリビアの人々で気候や生活の豊かさ(ビッグマックの値段と賃金などを指標にしても良いかもしれない)を補正すると同じ傾向があるのかとかは気になる。ただ、アンケート法で調査した場合にアンケートに答えてくれる人というだけでかなりサンプルが一般市民からかけ離れてしまうことが予想される。ランダムな電話調査にして脱落数が少なければそれがベストかもしれない。この手の論文があるのかどうかすら分からないし調べる手段もない。自分に無縁な領域について文献を集めることは本当に難しい。

 僕は総合診療医になってしまった、という言い回しを使うことがある。自分の人生の責任を自分で負わないタイプの物言いで、そのフレーズを用いる度にイケてないなと感じる。生い先短い人々の終末期の病状説明を行う時に感じるのは責任の所在が自分にあることに対する恐怖だと思う。アラバマだかオハイオだかの遠い親族がやってきて、お前がこんな決定をしたのか、と実際に詰め寄ってくることはないのかもしれないけれど、判断に責任が伴う時に罪の意識を孕んだりしてしまう、のだと思う。少し前にACP(advanced care planning)を人生会議と名前を変えようと厚生労働省が言っていたように思う。これはまさにこの罪の意識の軽減に寄与するものだ。わたしはこの身近な親族に少しでも長生きしてほしいと願わなくてはいけないかもしれないが、この本人がもう終わりにしてくれと思っているはずだとみんなが思うならそれを尊重しなくてはならない。そしていざという時に本人の思考をエミュレートするために会議がとりもたれ、まだ起こらない好ましくない事象について本人がどう判断するのかの根拠を得ていくことで、それが仮令未知の事象であったとしても判断をしやすいよね、という話だと思う。少なくとも僕はそう解釈している。つまり責任の所在を本人にうつす行為に他ならない。

 以前はこういった取り組みが、誰も幸せにしない僕らの行う医療行為を激減させると信じていた。今はあまり信じることができない。脱水と口渇とは違うことを知っているし、末梢点滴をするか、それすらせずに本人の苦痛をとるだけの選択肢があることを知っていて、それらを家族に提示できると思っていた。結局のところ、末梢点滴のみの患者を療養病院は儲からないから受け入れたくないし、食べられない点滴もしない患者を何かあったら嫌だからと施設も受け入れてはくれない。ただ静かに何もせずに死を待つだけの人々の居場所がそもそも用意されていない。薬剤耐性菌について心配するなら根本的な治療のできない嚥下機能が廃絶した高齢者の望まれないCVC-TPNや胃瘻を減らすべきではないのかな。平穏な死の選択肢を消し去ったことで、NHCAP(老人ホームとかで起きる肺炎のこと)は激増する。療養病院では抗菌薬の適正使用はされない。先日聞いた療養病院の話。誤嚥性肺炎には一番安いという理由からPIPCが使われる。ちなみに経鼻胃管の挿入の際にレントゲン撮影を行うと叱られる療養病院もある。勿論レントゲン撮影を行わない場合に気管に挿入されていて栄養剤を注入されたら死ぬこともあるだろうし、これで訴えられたら負けるに違いないがレントゲンを撮ることは経営上不適切のため禁じられているらしい。何をやっているんだろう。

 患者家族にばかり責任について考えさせる非対称的な関係性について問題にしている人を見かけないのは僕の意識が低いからなんだろうか。僕はこの責任の問題が日本の文化圏で終末期の話を行うことのハードルだと認識していたのだけれども、施設や病院の受け入れ基準といった医療介護側の要因も大きなハードルになっているなと感じる。人生会議とします、とか名前を変えることを考える暇があったら非ガン患者の死を待つ場所をつくってくれたら良いのに。

 

おねしょの神様

 夜も更けた田舎の飲屋街、小汚いスナックの店々からくぐもって響く泥酔したおっさんの調子っぱずれの懐メロにどことなく寂しい気持ちにさせられる。月明かりに照らされた鄙びた街路をテクテクと歩くのは私、と、その遥か先に人語を解さぬビーストが奇声をあげて周囲を威嚇しているが周りには誰もいない。神よ、と天を仰いで見たけれど、無神教徒の僕を都合よく助けてくれる神様はいない。

 その30分前、病棟の飲み会は一本締めなどをして終わった。デブなので僕は話も聞かずに唐揚げを食べていた。きっといい話なんだろうが唐揚げより大切なことが人生に多くあるとはちょっと考えにくい。僕と同じチームについてる研修医氏は出来上がっており筋トレなどを始めていた。そのままの勢いで階段につながる二階部分の壁につかまって懸垂などをしているのを見ていたら突然姿を消した。それとほとんど同時に鈍い音が響き、おそるおそる階段に向かうと手足が妙な方向に曲がったグロテスクな泥酔者の姿を階下の床に発見した。中島らもは確か泥酔して階段から落ちて死んだ(https://www.google.co.jp/amp/s/www.nikkansports.com/m/entertainment/news/amp/1682081.html)。が、研修医氏は落ちた次の瞬間にはうつ伏せになり気がついたら腕立て伏せを無限にしていたからどうやら死んでいないらしかった。

 そのさらに前々日の夕方、出張という名の飲み会で富山に行く気マンマンだった僕はその日になって初めて行先が福井であったことを知る。福井県は恐竜と羽二重餅が有名らしいが、僕は恐竜というといわき市のイメージだった。いわき市はフタバザウルススズーキーと炭鉱とハワイアンズの街である。ドラえもんが好きだった僕にとって憧れの恐竜はティラノサウルスでもトリケラトプスでも、モササウルスでもアーケロンでも、ランフォリンクスでもケツァルコアトルスでもなく、フタバススキリュウだった。(『ドラえもん のび太と恐竜』を参照されたい。)フタバスズキリュウが固有の種であることが判明したのは確か結構最近の話で、ニュース(https://academist-cf.com/journal/?p=3434)で観た記憶があるなと思って調べてみたら、2006年のことだった。時間が経つのが早い。福島県いわき市も化石で有名でアンモナイトの博物館だったはずだが、どうやら福井には世界三大恐竜博物館があるらしい。なにそれすごい。行ってみたい。化石の博物館といえばシカゴのフィールド博物館に置かれているティラノサウルスの化石標本の顎にトリコモナスの感染の跡があったという話をどこかできいたなと思って調べてみたらこんな記事(https://www.afpbb.com/articles/-/2648322?cx_amp=all&act=all)をみつけた。こんなことをネットサーフィンしているうちに昔古生物学者になりたいとか言っていた時期があったことを思い出した。何かになるというのは何かにならなかった(なれなかった)ことだから、何になったところで他のあらゆる全ての存在になれないということなんだけれど、そういう目で昔何したかったんだっけとか考えると少し切ない気分になる。でも結局個別の要素が強すぎてRCTが組めないようなn=1の問題に対して、予め決まっている最善手があるかのように考えることの方が病気だなという気もする。

 福井駅の前には巨大な恐竜の模型が置いてあって、これがまたリアルで、たまに動いたりするようで、しかも改札の自動化の前に恐竜が動くようになったとかで、福井県民の恐竜への熱い思いなどを感じていた。焼き鳥が有名とのことだったので、ビールと地酒と焼き鳥をつついて、刺身をたらふく食べて寝た。そもそもが学生を勧誘する旅だったのだが、学生さんが握りっ屁をかがせてきたり、突然尻に噛み付いてくる彼女がいて、その彼女の幸せを願って地元には帰らずに遠い地に行くと話していたからハナからダメだった。美味しいごはん食べられたから僕は満足。

 その24時間後、僕は途切れない救急車を受け続けていた。田舎なので断るという選択肢はない。そのうちクソど田舎なのに県内搬入数ランキング4位にまで上昇したことと地域の輪番病院が夜になってから一台も救急車を受け入れていないことを救急統合システムの関係者メニューで発見して救急隊は輪番のシステムを何だと思ってるんだべかとうんこもれそうになった。睡眠時間が足りないと人に優しくできないし、うんこも容易にもらしてしまう。

 長い夜が明けた。隣で一緒に当直した人妻研修医氏が口から魂に似た何かを吐いて死んでいた。午前中で帰って良いことになっていたが病状説明を5件入れていたし、こじれた関係になった患者家族にゴリゴリに当たられたりしていたら昼が過ぎ、夕方になり、カルテを書いていたら夜になり、そうしてまた新しい飲み会がやってきた。

 

 泥酔した研修医氏は死んでいなかったので、朦朧とした意識で電柱と戦わせるように誘導して遊んだりしていたが、拳が限界になったようで、そのうち言葉にならない叫びをあげてさびれた田舎の飲屋街を猛烈なスピードで駆け抜けていった。途中から人語を発することができなくなったので、僕の家に連れて行き、意識も悪かったので、きつけ薬としてウイスキーをコップに注いで一緒に飲んでいたらそのうち倒れてしまった。翌朝ニヤニヤしながらズボン貸してというからどうしたのかと思ったら床がションベンまみれになっていた。おねしょマンは罪の意識と無縁のようだが、私といえばいつも罪の意識にさらされている。睾丸にウエイトトレーニングが必要だ。テストステロンしぐさをしなくては。

 

 

ビアガーデン

 いつものように飲み会の予定を忘れていた。当直明けの倦怠感が背中にのしかかってきて、殺風景な家の布団に寝転がってみたはいいけれど、なんだか心がザラついたような感じで、目を閉じても焦燥感があって寝付くことができない。ゴロゴロしながらツイッターでの見知らぬ人々の殴り合いをみたり、目が疲れるからやめてじっと目をつぶってみたりしていた。

 アルコールが入ってもそんなに変わらないよね、と言われて何を言ってるんだと思ったことは一度や二度じゃない。飲み会明け、殊に二日酔いを伴う時は尚更に低すぎるテンションとこみ上げる気持ち悪くて酸っぱい嘔気でしんどくなる。こんな時に限って、前夜に何か気が大きくなっていけないことをしていやしないかとたまらない不安感に襲われる。別に記憶がないわけじゃないから、一つ一つ思い出してみれば法に触れるようなことをしていないのは分かりきっている。けれども、あの場面であのセリフは適切ではなかったのではないかとか、これを言われた方の気持ちってどうなのみたいなことを考えはじめてどんどん沈んでいく。

 気持ちの大きさの波の振幅がそのまま目の荒いヤスリみたいにただでさえ目を開けていることが精一杯な僕のメンタルを大根おろしみたいにジョリジョリと削っていく。

 ごめんなさいのセリフが苦手だ。僕自身、小さな頃に物を壊されたりして、担任の先生の前で謝って一件落着にさせられる時の謝罪の圧力が嫌いだったし、また逆に大学1年生の頃に推している女の子にうざ絡みした後に本当にごめんなさいと言ったら、謝ればいいんですかねそういうのは実際の行為で示されないと困るんですよね(大意)と言われて泣いたりしていた。

 予定調和に向けた軽い(ように見える)謝罪から受ける力が強めであることは、なんだか心の物理学的に正しさが欠けている感じがする。

 布団に寝転がって、まぶたの裏側にはりついた模様に意識を集中していたら、ラインの通知音が僕に同期飲みのビアガーデンをお知らせしてくれた。

 駅前のテナントがほとんど入っていないビルの屋上につくと風が強くて、遠くの山並みがきれいで、提灯がどこか夏らしくて、まだ日が高いのにおっさんたちが飲んでいて、子供達がわけのわからない叫び声をあげながら屋上を走り回っていた。あっあっと適当な母音を発してグループに混ざって、エビスビールの黒と普通のハーフを頼んで一気に飲み下すと、胃があったまってきて、なんだか穏やか気持ちになってきた。走る子供達が一生懸命で可愛い。気が大きくなって、別に仲良いわけでもない女の子と連絡などしながらビールを飲み続けていた。みんな三年目になって大変そうだなと思う。同期氏の家に泊まって、科学と哲学についてみたいな本を渡されつつ自作のカードゲームをやったりしてから寝た。

 翌朝はいつも通りに気が小さくなって、泣きそうになっていた。中島らもが本物のアルコール依存症の人はずっと酔ってるから二日酔いにならないと言っていた。僕はダメな方にも良い方にも本物になれない。

 家に帰って、朝ごはんも昼ごはんも食べずに、雨が道路を打つ音を聞きながら、布団に丸まって夕方まで寝ていた。このままじゃいけないと冷蔵庫にあった豚肉300gをニンニクと炒めて一気に食べたらなんだか生きててもいい気がしてきたし、なんならゴジラでも映画館に観にいこうかなくらいの気分になってきた。豚さんに感謝。

 ツイッターで僕の周りにはこういう人ばっかり! みたいな対立する派閥をこき下ろすタイプの言説によく触れる。観測範囲内の相手がその属性の一般的な集団だと思う人々が多くてびっくりする。大抵の母親は父親に子育てしてほしいというよりうまくできないのをみてダメだと指摘したいだけだとか、大抵のヴィーガンは肉フェスの横でテンション下がる貼り紙をするからいけてないとか。

 昨晩、同期氏に手渡された本は光が観測される確率の波であり粒の性質もあるってどういうこと? みたいな話をとても直感的に分かりやすく書いてくれていた、そこだけ読んだ。実験が何より正しいと考えて、それありきで仮説を立てて新しい実験をして検証するべきだよね、みたいな自然科学の根本的なところについて書かれていた。

 ツイッターでの論争もそうなんだけれども、自分の観測した事象が普遍的なものであると結構無自覚に信じがちだよなと思う。実験にしたって、例えばそれって隣の銀河系でタコみたいな宇宙人がやっても本当に同じ結果になるの? 地球以外のあらゆる場所で実験することが不可能なのにどうしてそれがそのほかの場所でも常に成立すると考えるの、とか。観測しえないものについて語ることは不可能だから、仕方ないんですかね。

 豚肉を食べた後の僕、ビールをたくさん飲んだ後の僕はシラフの僕とか立ち位置が違って異なる観測点から世界を見ているみたいだ。豚肉アフターに、雨の日の涼しい6月の風がカーテンをひらひら揺らすのをみるとなんだか雨も悪くないなと思う。

りっぱにりっぱに

  エアコンの配管からの音の波長が絶妙なので、夜当直室で寝ていると遠くで鳴っている救急車のサイレンの音のように感じられることが多々ある。救急車をタクシーがわりに使う人が問題って話は度々耳にするけれど、地域柄もあるのだろうが救急車に乗ってくる人にはそれなりの理由がある人が多い。勿論中にはどうしてこんな症状で救急車呼んだんだろうと思う人もいるけれど、カルテを見て救急外来ばかりを受診して昼間の外来に来られない人には背景に現在の症状と直接関係ない問題があることも多い。認知症で一人暮らしまたは老老介護、境界くらいの精神発達遅滞ばかりの家族、統合失調症の人、などなど。救急車を利用しなくても、夜にばかり来る患者というのもいて、昼間の外来で慢性期のコントロールをきちんとされないから喘息発作になったり、緊急性がないからと対症療法のみで帰宅にされ確かにその時々の救急外来の対応としては間違えていないんだけれど、何の解決にもなっていない人、など。

 以前より、救急外来は敗者復活戦だと思っている。CPAの搬送などその最たるものだろう。心臓もとまって呼吸もしてない人間が、どうして普通に生き返ることがあろうか(目撃者あり、バイスタンダーCPRがあり、かつ解除可能なAMIや電解質異常や窒息低酸素などがあればまだしも……)。

 6/3に抄読会がある。田舎にいるとアカデミックなものに触れない、ベストな臨床のためには正しく臨床研究の結果を解釈できる必要がある。ゾフルーザは使うべきなのか、高齢者の誤嚥性肺炎には院内肺炎だからという理由で広域抗菌薬を使うことは適切だろうか、せん妄に対してラメルテオン(ロゼレム)を使うことがたまにあってこれ(https://jamanetwork.com/journals/jamapsychiatry/fullarticle/1831407)を根拠にしているんだと思うんだけど実際どうなんだろう。CPAで除細動の適応がない時にとりあえずアドレナリン打ってROSCさせるけれど、ほとんどの場合、解除可能な原因はなくて、いつからCPAなのかも分からず、とりあえず心臓が動き始めたら重症者用病棟に担ぎ込むけど、数時間でお看取りをするのは本当に意味のあることなのか、そもそも蘇生行為の中止をするときに家族にもう無理なので中止しても良いですかと訊くのにどんな意味があるのか、嫌だといったら死後硬直が出るまで永遠に続けるのか、めまいに対してのHINTSは不慣れな人がやっても本当にMRIよりも感度や特異度が高いのか、ゲロまみれの患者さんの頭をブンブン振ることがどれだけ現実的に可能なのか。ドパミンとノルアドでどっちが昇圧は良いのかって話はしばらく前にノルアドが良いと決着がついていて(https://www.nejm.jp/abstract/vol362.p779)心原性ショックにおいてはよりノルアドの推奨度が高いとされているけれども、たとえばLOSで重度の弁膜症がある時にも本当に後負荷をあげることが予後改善につながるのか、病態を改善するのはβ刺激で心拍出量を増やすことだと思うけどなあ、などなど、日常臨床をしていると疑問が尽きない。かといって、pubmedなどを調べてみたところで、論文を批判的に読めるかと言われるとどうもそれも無理なような気がする。ガイドラインなどを読んでみるがガイドラインガイドラインでCOIの関係から盲信もしにくいという話(https://ebm.bmj.com/content/23/1/33)もあったりする。

 そんなわけで、自分で何が正しいのかを判断する力が欲しいよなと最近思う。何を信じたらいいのかよく分からない。最低限のまずいことはしないようにしているけれど、せっかくならばベストな選択肢をとれるようになりたい。自己肯定感向上のための広義のオナニーの一環である。

 先日病院主催の勉強会で、立派な集中治療医の先生と話していた時、数の大きなRCTなんて患者ごとの個別の病態についてはあまり考えられてないから大規模RCTの結果だとわずかにこっちの方が予後が良いらしいけれど、でもこの人の病態的にはこっちじゃない? みたいな話はあって良いのよと言われた。たしかに本来的なEBMはそういうものだし、そうでないならガイドライン人形になってしまう。ところで、その先生が敗血症性ショックに対してノルアドの容量が0.1γをすこし超えたくらからSIMD否定できればバソプレシン使ってると思うけど、では逆に切るときはどう切ってるかね、と訊かれて、追加したのがバソプレシンなので切るのもバソプレシンを先にしてますといったら先にノルアド下げた方が良いとぼかあ思うけどなあ、と言われた。理由を聞きそびれてしまったので知っている人がいたら教えて欲しい。

 ちなみに抄読会の論文は院外心停止に対して早く救急隊がアドレナリン1mgを投与すると予後は改善するかという話(https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa1806842)を選びました。蘇生行為を行うたびに虚しい気持ちになるからだ。結局、アドレナリン投与群で生存予後は良いけれど、生き残った人同士を比べると神経学的予後の悪い人の割合はアドレナリン投与群で多いと。まあそりゃそうでしょうね、生き残った数が違うんだから。そもそも神経学的予後を改善するかどうか自体も微妙とのことだけど、3ヶ月後の神経学的予後の調整オッズ比は0.97-2.01で有意差なしになってるけれど、limitationに当初予定していたよりも生存者が少なかったと書かれておりもう少し参加者が多かったら有意差がつきそうな感じがする。僕はむしろこの論文の著者の、アドレナリンなんて打ったって無駄よどうせほとんど死ぬもんね、という僕と同じような悲哀のメッセージを感じとったよ。だから、生き残った人同士を比べたら神経学的予後は悪いしね、なんて当たり前のことを言いはじめるんじゃないかな。ちなみに、救急車の病院への到着時間が結構早くて、これは僕の勤める田舎病院にそのまま適応しにくいのかなと思った。遠くの温泉街のCPAで40分かけて搬送された人の蘇生行為にそもそもどこまで意味があるんだという話もあるし、そういう人に対してなら早めにアドレナリンうってあげた方が良さそうだけど。

 いずれにせよ、救急外来は敗者復活戦だから、そこから普通のリーグ戦に戻せるようにしたいし、普通のリーグ戦で負けないように考えないといけない。誰にも評価されないような、どの時間帯のお薬が余っていて飲み忘れが多いのかを把握して昼に飲み忘れが多ければなるべく1日朝に一回の薬にして一包化するとか、定期外来になかなかこれない人に通院支援のバスの利用方法を教えるとか、血圧手帳を渡して病識をもってもらうとか、検診を受けるように強くすすめるとか、肺炎球菌ワクチンをすすめるとか、フロセミドだけでコントロールされている心不全の人の薬を調整してかかりつけ医に返すときに何故この薬に調整したのかをきちんと理由を添えた診療情報提供書をつくり急性増悪時にはいつでも送っておくれと書いておくとか。そういう勝つための戦いもしたいけれど、そういうのって地味だから、誰に評価されるわけでもなくて、寂しいからこういうところでブツブツ言ってるんだ。

 せんせのブログ読みましたよ、と黒髪の乙女が言っていた。それからまた書き始めていることを考えるとやはり、僕はオナニーは苦手で、他者からの目線がモチベーションに繋がるタイプの人間なんだなと実感した。

 ちなみに救急外来の待合室に救急車の不適切利用はよくない! と書かれたポスターが貼られている。待合室に待つ多くの人は不適切利用をしていない人なのだから、ここにこのポスターを貼ることで一体誰が得をするんだろう。なにかを主張するときは誰に伝えたくて、何処に向かって叫ぶべきかを考えないといけない。僕は何のためにブログを書いているんだ。オナニーよりも視姦プレイを楽しむという方が近いのかもしれない。

しらないまちへ

 ワンマン電車の信越線が長岡をすぎると少しずつ家より田圃が多くなり、さらに行くと山がちになってそのうち田圃すら少なくなっていく。6月初めの透き通った風を受けてひらひら揺れる小さな稲たちが涼しげで、うとうとしながら初めて乗る路線の車窓を流れる景色を眺めていた。

 この外勤先の街自体に来たことが1回しかない。家から150kmも離れている。来たことがあると言っても谷村美術館に行った時に通ったことがあったような、なかったような、コンビニくらいは寄った気がするな、くらい。あとガソリンスタンドのおねえさんが可愛くて鼻の下を3メートルくらいに伸ばしたのもこの辺りだったような気がするが何年も前の話で定かではない。

  電車にはさわやか男子高校生たちが部活帰りじみた格好で群れて乗っていた。人生楽しそうで何よりである。僕が高校生の時といえば、18歳になったからと高校近くの本屋さんで堂々とエッチな本を立ち読みしていたら店員さんに高校生は成人コーナー立ち入り禁止です、などと言われて怒られていたように思う。18歳であることを力説したがダメだった。この差はどこから来るのだ。その謎を確かめるために僕はニーガタに向かった……。

 

  まともな人のまとも性みたいなものにすごい弱くて、車の中で文字の多いマンガ本を読んだ時のような気分になってしまう。親しき仲でもパンツ履け、という話は尤もで、確かに一々わかり切っているあなたの非まとも性について説明されても、もうお腹いっぱいだし、もういいんで早くパンツ履いてそのくさそうなブツをどっかにやってください、とそうなるに違いない、違いないことは分かるのだけれども、クソにシャネルの5番をふりかけたようなまとも性はやっぱり苦手。

 地元に帰ってきて3年目になるので、さすがにチラホラ知り合いだとか僕を知っている学校の先生に病院で出くわすことがでてきた。そんなことがあるたびに、中学校の頃に先生からいい子と言われていた子が認知症の祖母から毎月のように新年と勘違いさせてお年玉をもらっていたなとか、親に虐待されててお風呂に入れてもらえない同級生をみんなが臭いと言っていたけど特に誰も止めなかったなとか、その子がドチャクソ大きな口を開けた時にふと閃いて固めた乾いた木工ボンドを口にめがけてデコピンしたら入ってしまいご本人と先生にすごい怒られたなとか、福耳の同級生の耳たぶを引っ張ったらいつか肩につくのではと思いついたので連日願いして毎日耳をひっぱらせてもらってたなとか(しばらくすると耳たぶを肩までくっつけようとしている作戦がばれて猛烈に嫌がられてしまったので作戦は立ち消えになった)、僕が学校に忘れてきた帽子を猫の死体の上に載せて遊んでいたことを学校の先生に指摘されて泣いていたさわやか優等生イケメンがいて、彼もこれだけ反省しているんだから許さないという手はないでしょうと担任に圧力をかけられたなとか(僕は全く許していないかったようで大人になってから一緒に飲んだ時に、僕は泥酔しながらその時大晦日のテレビで放送されていたリゴンドーがボクシングで相手をボコボコにしてるのをみてテンション上げた状態で彼に渾身の中段突を放ったところ倒したは良いのだが極真空手の黒帯の人に上段突されて止められた、僕の方がずっと重傷、何かがおかしい)、僕が勉強を教えてあげていた子たちは通知表が僕よりずっと良かったなとか。そんな記憶の断片が蘇ってくる。

 なんだかさわやか優等生タイプへの怨念がすごい。そういう人たちが女の子とすけべした後やシュラスコでタンパク負荷を沢山して死ぬほど臭い屁などを尻からだしながら、まともなことを話したり内省の乏しさから他人に対してのみ本気で義憤に駆られたりするのを想像すると論理的一貫性がないような気がしてゲンナリしてしまう。いや、でも僕に耳たぶ伸ばされてた子もひょっとしたらいじめられていたと認識しているかもしれない。他人にばかり内省を求める客観的視点のない人間のことが嫌いなのは自分がまさにそういう人間だからなんじゃないか。そんな説もある。諸説あり。

 なんにせよ、これらの薄暗い気持ちからファッション発達圏の人をやっていた(これ現在完了のつもりなんですが日本語で現在完了使いたい時って過去形と区別できないですよね欠陥?)つもりがいつからかどこまでがネタでどこまでが僕自身なのかよく分からなくなってしまった。まともさからの逃避としてのファッション発達圏がより重度の発達マンを侮蔑し、わたし自身の幸せをも阻害している。諸悪の根源だ、これに諸説はない。

 

 高校生たちは名前も知らない駅でぽつりぽつりと降りていった。電車のドアが開くたびに涼しい風が車内を吹き抜ける。あのドアの向こうは僕の行き場じゃないなと思ってすこしさみしいような気持ちがした。田圃のきれいな風景は窓の向こうにあるものであって、どこまでも外からの観賞用で、銀幕の上の青春と同様にわたし自身の物語とはなり得ないのである。