ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

なにものにもなれない話

先日パソコンを近所のヤマダ電機で購入した。今まで使用していたパソコンは、タブレット型なのにもかかわらず、画面はひび割れてマウスがなくては使い物にならなかったし、そもそも充電のためのケーブルをなくしてから半年以上が経過しており、つまり半年以上起動したことがない状態だった。

それでもパソコンを使用しないとどうしようもないタイプの仕事(というか勉強会の資料作りだったり学会発表のスライド作成なんてもの)はやらなくてはいけなかったわけで、病院に居残る必要性はでてくるし、自然とQOLも損なわれてしまう。

仕方がないので、一番安い画面の大きいノートPCをくださいと店員さんに話して雑なパソコンを購入した。ところがせっかくパソコンを買ったのに、自宅にWi-Fi環境がないせいでエッチな動画をみることもできないし、本当にほとんど使い道がない。ツイッターiPhoneからもできるし……と考えてブログを始めることとした。

 

ここ半年程は押し寄せる日々のあまりの勢いにどうしてよいかわからないままに過ぎてしまった。メスと別れ、愛車は壊れ、やけくそで新車を一括購入し、気が付いたら第一志望の診療科が総合診療科に変更になり、整形外科の諸先生方に詫びを入れ、そして後期研修プログラムのマッチングの日を迎えている。

 

大学生時代をきわめて意識の低い状態で過ごしてきた。大学受験が微妙だったからではとか、医学に興味がなかったからではとか、部活が忙しかったからでは、とか、まあいくらでも理由は考え付くんだけれど、どうにもそれらが本質的な答えであるとは思いにくい。「今日どうも飲み会に行きたくない理由」―金がない、眠い、明日の朝早い、昨晩当直だった―とか、そういうものと同じで複数の理由がポンポンでてくるときというのはたいてい本質的な理由ではない。

高校までは自分のADHD的な性向を考えればかなり真面目に机に向かって過ごしてきたと思う。それに医学に興味がないから、ということと大学受験がうまくいかなかったことは両立しない、というのもより良い大学に行ったとしてもそこはたぶん医学部だったはずだから。バブル崩壊直後に生まれた世代としては、やはり将来の安心みたいなものをどう転んだって求めてしまうに違いない。

以前、何かの飲み会で泥酔しながら、「縦軸に時間、横軸に今後の可能性をおくと、ぼくらの生き方は四角形をしていて、小さいころは何者にでもなれるように勉強したり、習い事をしたり、する(させられる)わけだけれども、大学受験あたりから急速に何者かになるという逆の働きを求められるようになる」という話をした。あとで思いかえしてみて妙に自分で納得してしまった。ひょっとしたらどこかで読んだ話だったのかもしれないが思い出せない。

おそらく僕は可能性を増やすことが好きで、何者かになることがむいていないんだろうなと思う。何者にもなろうと思うことができずにどうしてよいか分からないまま、ただただ大学生活を現実から目を逸らすために部活に精を出し、将来の夢は羊飼いだと言ってはばからなかった。

圧というのは便利なもので、働くとずりずりと動いていく。それが自分の意志とは関係なくても、そもそも意志が存在しない場所でそんなものを考慮する必要もない。ずりずりと動きながら周囲に多少の傷を残して、僕は総合診療医になることが決まった。

 

何者かになれることを祈りながら、何者にもなれない予感に震えている。