ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

おむつの私と雲のむこうの神様

だんだんと日が短くなったことが、朝の寒さで6時ころに起きた時の窓の外の薄暗さでわかる。通勤時、利根川を越える国道の橋から遠くに見える山にへばりついたスキー場からの呼び声が聞こえる。そうだ、もう年末だ。日々やるべきことや考えることたちの重みがt軸方向に垂直にかかることで、主観的な時間が圧縮されているのだと思う。何か仕事が多いとか別にそういうわけではないのだけれど、気が付くと一日が終わっている。

先日は忘年会があった。田舎なのでパワハラとかアルハラなどという先進的な単語がここには存在しない。今まで僕が生きてきた世界と何ら変わりがないので、居心地は良い。酒は注がれる前にコップを空にする必要があるし、乾杯は盃を乾かすの意味で、それでも社会人なので泥酔してはいけないし、学生ではないので吐くことも許されない。夜、リハビリ室をかりて鏡の前でバブリーダンスを練習する。もちろんサボることは論外だし、当然残業代はでない。これは仕事ではないが義務である。わたしはこれを楽しまなくてはいけない。(まあ実際ダイエットになるし全然良い。リハビリ室にある重りを手足につけて、グラップラー刃牙でオーガと戦う前に米軍基地でユリーと花山薫とアップする刃牙の気分を感じる。)忘年会の後、おむつを履いていることを忘れてそのまま勉強会に参加したので、講義をきく私のおまたはなんだかとってもしっかりとサポートされていて安心感があった。オム友募集中。

僕は信心深い方ではないのだが新年になると家から15キロほど離れたスキー場近くのブナ林がきれいな山奥にある神社に初詣に行く。手を合わせて何かを祈る機会は多くない。初詣の時と、登山口近くに神社がある時くらいだ。都合の良いタイプの信仰を持っているので、手を合わせた時だけカミサマが降臨して私の願いを聞き届けてくれることになっている。

ところで先日、ツイッターからツイッター開始から7年記念日ですよ、とお知らせが来ていたために、ツイッターを始めた時のことについて考えさせられることになった。確か、当時はmixiが廃れ始めたころだった。少しずつ、mixiユーザーがツイッターに移住を開始していた、SF映画で宇宙船で地球から逃げていく人々を地上から見送る人ってこんな気持ちなんだろうなと思った。mixiの存在価値は長文を書くことのできる日記だけになった。日記を書くと、少ない住人たちがたまにイイネをつけてくれる。体が悪く宇宙船に乗せてもらえなかった病人ばかりが残った星で行われるグループ療法だった。結局病人たちもそのうち宇宙船の切符をもらえるようになる。少しずつ、少しずつ、この星の住人は減っていく。そのうちグループ療法ができなくなった。

インターネット上に日記を書くという行為、不特定多数のだれかに日々の考えをそっと打ち明けるという行為は、だれでもない誰かに宛てたメッセージだ。僕はこんなことを普段考えているんです、ふだんはおちんちんの話しかしていないでしょう、でも僕は本当はこんな人で、こんな自分でも愛されたいんです、というメッセージに他ならない。

映画『処刑人』だっただろうか、協会で悪人の殺人について懺悔するのは。かみさまを持つ敬虔なタイプの人間は教会で「こんな私であるけれど、それでもやっぱり赦されたい」と思うんだなと。一方で年に数回、手を合わせた時にぽっと舞い降りてくれる僕の都合のいいかみさまは、やっぱりご利益も少ないんだろう、日々私の存在を認めてくれたりはしない。

いつもは服をきていても、たまにはオムツで出歩きたい。おむつの私も愛してほしい。けれども、いつもおむつを履いている自分を人前でさらすことがいけないことくらいは理解している。そう思いながらも回診中におむつを履いていることに気が付いた私は隣に立つ研修医を小突いて、ねえみて今日おむつなの、と言ってしまった。

おむつの私を愛してくれという思いの厚かましさの自覚は、誰でもない誰かへのメッセージとして発信されるしかない。ブログやSNSによって、存在と非存在の間を揺れ動く、理想的な聞き手に出会おうとする動機はそこにある。そんな時、twitterなどは教会にかわる。古典的な信仰を失った僕たちを救ってくれるのは、だれでもないだれかというあなたしかいないのである。そしてネットの雲の中にいて顔が見えないために、「あなた」はそこで神性を得る。人々を救う集合意識としての神の存在がインターネットに揺蕩っているとするならば、僕は相当に敬虔な信者だ。おそらく結構救われているのだろうね。

 今日も救われるために文章を書いている。