ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

セワシ君、イマ・ココ、ツララとインフルエンザなどに関して

診療所は峡谷に面しており、窓の外ごついツララの向こうに見える寒々しい対岸の岸壁はモノクロで水墨画みたいだ。鳥は一羽として鳴かず、ボボボとうなる古いガスストーブは信じがたい短時間で部屋を暖める。部屋の熱にツララが解けて、時折階下のやねにガラガラと落ちる音が心地よい昼休みの転寝を中断させる。

冬の診療所と言えば(なぜか冬の救急外来も)インフルエンザだ。インフルエンザ自体は寝ていれば自然軽快するのに、わざわざ「【主訴】インフルエンザ迅速検査希望」でインフルエンザ様疾患(という言葉があるらしい、昨日コクランレビューを読んでいて初めて知った)の人々が待合室にやってくる。

インフルエンザ診療は少し厄介だ。まず、迅速検査の感度は低いと言われているけれど、調べる文献によってマチマチで困ってしまう。添付文書では9割程度と書かれているものが多いが、今日の臨床サポートを見ると6-7割だと書いてある。一次文献に当たれという指摘は全く以ってその通りなのだが、論文を批判的に読む技術が自分にあるとは到底思えないから、一次文献に書かれた検査の感度等を信頼してよいのかどうかは判断できない。結局、えらい先生(きっと批判的に論文を解釈できるのであろう人)が書いている今日の臨床サポートやDMP、Up to dateの記載に頼ることになる。先日同期氏が話していた『研修医の「Pubmedに書いてありました」ほどアテにならない根拠はないよな』という意見に膝がぶち壊れるほど膝をうち、壊れた人形みたいに猛スピードで首をかくかく振って同意を示したい。まさにその通りだと思う。ということで、感度6-7割程度だと僕は考えている。臨床における検査意義を考える上で非常に微妙な数字で困ってしまう。

一般に、多くの臨床医は検査前の病気である/ない確率を、高い、中等度、低い、まずない、くらいにふわっと分けて考えている(と思う)。そして検査後にその確率が変動する。治療をするかどうかはその人の重症度や緊急度によって変わってくる。心筋梗塞かどうかわからなくても致死的不整脈が止まらなければ心カテをするしかない(他にすごい電解質異常とか明らかな原因がなければ心筋梗塞くらいしか解除可能な原因がないから死なせないためには侵襲が大きくても可能性がそんなに高くなくても心カテするしかない)。夜間の転倒で橈骨遠位端を痛がる高齢者で転位もまったくなくてレントゲン2方向撮影したけれども骨傷がはっきりわからなければ、シーネを巻いてか明日以降再診で整形外科にかかってもらえば良い(別に今すぐにしっかり診断しても予後が変わらなのでCTとったりうなりながらモニターを何十分も眺める意義があまりない)。検査や身体所見の感度や特異度の特性の問題の次に必要なのは、「その疾患である可能性が中等度でも治療する」とか「別に今見逃しても良いので可能性が高くなければ治療しない」とかをあらかじめ決めておくことだ。所見と病歴から検査前の確率をふわっと考えて、感度や特異度や侵襲性や医療コストを考慮した上で検査や治療をするかどうかを決めていく。感度が高くないなら、見逃し例が多くなる。致死率が高い疾患であれば、見逃し例を出してはならないので、感度の低い検査が陰性であっても治療するべきだ。一方で見つけても方針が変わらないのであれば、別に検査自体をしなくても良いだろう。折れてるかどうかはっきりしないような肋骨の骨折を深夜の救急外来で一生懸命に探す必要性はおそらくない。折れても折れてなくても希望があればバストバンドして帰宅である。

外来での(特に診療所における)インフルエンザ診療は、基本的には「生来健康か軽微な併存疾患のみを持つ人のインフルエンザ様の症状を呈する人をどう扱うか」である。WHOのガイドラインでは基本的に肺炎やら脳症をきたしていないリスクの特に高くない人のインフルエンザなら特に治療は必要ないと明記されているくらいだから、基本的には見逃し全然OKの疾患だ。

イキり研修医はよく(まさに今の僕のように)検査の感度や特異度やベイズの定理についてしたり顔で語って、「この人は検査が陰性でもインフルエンザの可能性は十分にあるんだから、最初から検査しないでいいよね」などと言う(イメージがある。勝手なイメージで、残念ながら僕のまわりにはそういうイキり研修医がいない。僕はイキりたいけれど、イキれない。悔しい。だからいつも仮想敵として心にイキり研修医を飼育している)。まあ、もちろんそれはそれで正しいのだけれど、耐性のことを考えるならヤタラに高インフルエンザ薬を処方するのはどうかなとも思っている。見逃しても大丈夫な疾患を正しく診断することの意義、というのが僕にはよくわからない。見逃して、対症療法薬のみだして、あるいは寒気が強くて高血圧などがなければ麻黄湯あたりを出した方が公衆衛生的には良いのではないかな、と思う。以前は僕も、検査の感度について言及して、主訴インフルエンザ迅速検査希望、という検査をするかどうかを決める権利はあなたにはありませんよね、と思うところから始まる一連のもやもやと正対していた。しかし、これは非常に効率が悪いし、僕も車検の時にいちいち車がどういう機序で動いており、どの部分がどうやって壊れたのでどの程度の緊急性でそれを直さなくてはいけないか、なんて話を一度もされたことがない。きっと、どこの分野でも、相手はわかってくれないよな、と思いながらふわっとした説明で、わかった気にさせることが大切なんだろうな、と思う。僕が現時点でたどり着いた答えは「主訴検査希望の健康な人が受診してきたら検査の感度や特異度については全く触れないで、迅速検査を提出して、陰性なら風邪ですかねえ、と話してメジコントランサミン、ペリアクチンを出して帰宅にする」である。

働き始めてから、最終的なアウトカムはどこ?という話を常に考えるようになってしまった。この病気を診断する意義はあるの? といった仕事の次元から、働く目的が稼ぐことであればどうして美容外科医を目指さないんだ? といった仕事自体に関する次元、そして僕は何のためにいまここでこうしているんですか、という中学生くらいで本当だったら向き合うべきだった問題まで。最終的な目的地が見えない多くの問題が日々あられのように僕の体を打つ。

僕がはじめてドラえもんを読んだのは小学校のころだった。ドラえもんとの初めての接触がいつだったかは記憶にもうない。ひょっとしたら、ヒトはみんなドラえもんの記憶を生前にインストールされた状態で生まれてくるのかもしれない。とにかく、僕の知っていたドラえもんと、漫画の1巻のドラえもんは劇的に異なっていた。まるでかわいげのない、青くてまるい何かが、かわいげのないことを言ってダメなADHD少年を困らせる。かわいくないガキ大将の妹と結婚して、会社では働けず起業するも会社が火事で全焼して不幸な一生を送る、みたいな未来を提示されるのだったと思う。クラスのかわいい女の子と結婚して、幸せな人生を送れるようにすることで、孫の孫のセワシ君も幸せになれる。タイムパトロールはどうしてこいつを処罰しないんだ。不思議である。のび太君はちょっと障害があるだけでたぶん実は非常に賢いので、すぐに本質的な質問を返す。僕の結婚する人がかわって、僕の人生ががらっと変わるなら、子孫である君だって生まれないことになるんじゃないのか? これは尤もな疑問なんだが、セワシ君は東京から大阪に行くのにはどの経路を使っていても同じだろう、といった詭弁でこれに答えていた。自分が大阪駅ではなくて、名古屋駅である可能性については考慮していないようだ。羽田から関空まで飛んで、名古屋駅はスルーされて、セワシ君は生まれてこないかもしれないのに。とにかくセワシ君は自分という着地点を物語で提示してる。彼はなぜか知らないが絶対的に大阪駅的存在なんだろう。

インフルエンザ診療で治療しないというあらかじめ決まったゴールに向かうように、検査するかどうか決めるというのは検査自体の意義からは離れているし、医学的にはたぶん本当は微妙なんだけれど、外来待ち時間まで含めた患者満足度を最終的なゴールにするならおそらく間違っていないのではないか。インフルエンザ診療も大阪駅に向かう。

診療所には基本的にはぐったりして死にそうな人は来ないから、長期予後を改善する役目が非常に大きいのだなという、ひょっとしたら当たり前のことを非常に強く感じた。病院はコントロールがよくなくて、何かまずいイベントが発生した人が来る場所である。あるいは人生を生き切った人々、病院の天井を焦点の合わない目でじっと見つめながらたまに諒解不能の声を発する限界の老人たちが来る場所であり、今更長期予後がどうなったところで誰かの幸せにつながるとは到底思えない人々も病院には多かった(すごく気が滅入る)。診療所は今を生きるちょっとダメな人か、ダメじゃない人がやってくる。本当にダメな人は検診を受けないか、検診結果をみても診療所に足を運ぶことすらしないだろう(そして本当にアプローチするべきはそういう人種なんだと思う、それがたとえパチンコ店にエッチなナースコスプレのおねえさんを配備して検診の重要性をプロモーションするとかいう手段であったとしても、医学的には大切なことだと思う、代替手段があればこんな炎上しそうな手段を用いる必要性は勿論ない)。そういう意味で禁酒や禁煙、減塩、ロコモ体操の指導なんてのは非常に大切だなと思うんだけれど、なかなか難しい。長生きするために生きてるわけじゃないし、僕だって酒が飲めない、ローストビーフや餃子をおなか一杯たべられず、すてきなおねえさんといいことやいけないことができない生ならそこまで執着しようとも思わない。

なかなか今の自分以外の視点を持つというのは難しいことで、酒を飲まない自分にはきっと今の僕にはわからない幸せがあるはずだ。夜中に思い立って突然好きな音楽を流しながら、ドライブに行くことができるし、突然レイトショーを観たくなっても安心だ。きれいなおねえさんとまったく出会えない人生でもコストコで巨大なテディベアを買って毎晩抱いていたらすごい幸せな気持ちになれるかもしれない。いや、それはないか。酒やしょっぱい食事はいまの自分自身にとっては幸せを感じる手段になっているかもしれないけれど、それをやめた自分にはきっと別の形の幸せがあるはずだと信じたい。そういう信仰を持たないと医学的に正しいことをお勧めしていくのはむずかしい。だって、今の僕はそれで満足なんだから、に対しての答えはおそらくここにある。

話が色々とそれてしまったけれど、つまり目に見える最終的なアウトカムなんてものは、多くの場合存在しないんじゃないかと感じている。僕らは常に「いま・ここ」に縛り付けられているし、地平線の向こう側については想像することは自由だけれど、いつだって見えない。そして、最終的にどうするの、といったその最終的なところは大抵ずっと先の地平線の向こう側に存在している。セワシ君が自分が大阪駅的な存在だと胸を張って言えるのは、読者にはわからない彼にしか見えない景色があるからに違いない。

実は、今日の昼休み、診療所の屋根のツララがとけて落ちるのを見た僕は楽しくなって、窓から手を伸ばしてヒモのついた財布で残りのツララをたたいて折って遊んでいた。誰かに見られたら頭悪そうだし恥ずかしい。他人の視点を持てないから、それなりに楽しく生きられているんだろうなとも思う。