ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

ゲロの中身と私がここにいる理由

自分の文章というのはあまり読み返したくなるものではなくて、むしろ書いた瞬間に破いて捨ててしまいたくなる。多くの場合において、書かれた文章や話された言葉たちは、メンタルのゲロみたいな存在であるから、犬のウンコを木でつつく小学生みたいな気分で人様の文章を読むことは楽しくても自分の文章を読むのは多少なりとも苦痛を伴う。つついて「あっ、昨日食べたモヤシあったね」とか発見しても楽しいものではまったくない。しかしなんとなく今日読み返すことにした。

最近、何者にもなれない人や何者かになりたい人に関しての文章に良く出会う。たらればさんの高円寺で~の記事(あの高円寺のユニットバスで、何もかもを欲しがっていた - MOOOM(モーム))(精神的な血族というふわっとしたワードがこれほど僕にとってsolidに感じられたことは今までなかったし、おそらく僕の記事をよんで苦笑している人には少しニヒルに笑いながらも心臓の裏側あたりの毛羽立ちと感じる内容だと思う、僕はこういう言葉を吐く人間にこの先なれるのだろうか)だったり、戸田真琴さんのアメリカ横断する無謀な中学生を生温かい目でみたりする記事だ。ツイッターでこれらの記事が回ってくる。

そういえば僕がここに初めて載せた文章も何者にもなれない話についてだった。何者にもなれない(今だけでなく、おそらくこの先もずっとなれない)自分に何となく劣等感を覚えてみたり、こんなはずではなかったなと思いつつ、けれども何者かになっているなと僕の考える人々のあまりに私生活を打ち捨て修行僧のように日々を生きて自己肯定感を高める状況を考えるに、僕の居場所はそこではないなと感じている。ツイッターの特性上、自分の好きな分野の人や情報だけに接することが可能である。おそらく、僕は何者にもなれないことに関する潜在的なコンプレックスを持つ人々の、その手の歪んだ自意識についてまったく述べていないにもかかわらず発してしまう波長に勝手に感応しているんだろう。

先日、沖縄に行ってきた。2/15-16で日本病院総合診療医学会学術総会があった。小さな集団が対象(※1)なのに年に2回もあるので参加者は少ないのが常なのだが、沖縄でやるということもあり、学会には少なからずフェス的要素があるために今回は参加者が多かった。初日はついたのが余りにも遅かったので、感染症コンサルタントの青木眞先生のありがたいお話を少しきいただけで終わった。質疑応答の時間で、どうしたら総合診療医が流行るかな、といったことを訊いた中堅ドクターがいた。青木先生は、総合診療医はスーパーマンが目立ちすぎて、ドクターGみたいなイメージが強くてあまりの意識の高さにヒいてしまう。もう少し門戸を広く、ハードルを低く、親しみやすい存在にしてみたら、本来なら2、3割はいて良い科なんだからさ、と話された。そうだよね、僕も総合診療医になりたいです、と話す人の瞳の輝きが苦手である。違う世界の住人だなと感じてしまう。(僕は意識の高い人の分類を二つの軸でしている。一つは真の立派性、つまり真に高いインテリジェンスを十分に発揮して、何らかの仕事をしているかの軸である。もう一つは、自分自信の意識の高い性をどれだけ愛しているかの軸である。多くの人は後者の軸が猛烈にプラスに傾いているから所謂立派性を獲得している。けれども前者の真の立派性の軸が伴うかどうかは別問題だし、そこが伴わない人間を僕は心底馬鹿にしている。それは僕に真なる立派性がないために、意識高い性を持つ自分を愛したいのに愛せないという現状があるからかな、本当は僕みたいに底辺している人間だって、立派になって、立派な自分自身をお前はこんなに立派なんだから、もっと幸せになれると、と言ってあげたいんだ。けれどもそれができない程度の中途半端な知性をかろうじて獲得しているからつらいの)そんなモヤモヤをかかえながらも、しかし、僕は総合診療科専攻医になる。世の中何が起こるか分からない。

学会のなか日の夜、指導医と後輩研修医と一緒にフリーランスで人生を楽しむ女医さんとその夫のフリーランス呼吸器外科医、さらに医療系ベンチャーで働くバリキャリ女性(後で調べたら僕も利用しているアプリを作っている会社のCOOだった)という奇妙なメンツで飲む機会があった。フリーランス女医は英語が勉強したくてdmm英会話で英語勉強したり突然インターンとして沖縄の海軍病院に1年行ってみたり日野原賞取ったりする猛者である。バリキャリ女史はリクルート等で働いていたゴリゴリのキャリアウーマンでとにかく強そうである。

強い人たちは医療の未来を語る。曰く(以下は完全に僕の意訳です)、医療における臨床推論やガイドラインにそった最適な医学的治療の選択といったものは、AIの得意分野である。しかし実際所謂ガイドラインに沿った最適な治療が最善手なのかというと微妙である。患者と我々は病気の層で接することでその層での問題を解決しようとするが、病気の層は生えている木で、根っこや土についての介入の話になるとそれは俺の仕事じゃないと言う人が多い。俺の仕事じゃない、本当によく聞くセリフだ、ばかたれ。けれども仕事忙しい、認知症の親の介護もしている中年シングルマザーが雑な飯を食べている時、糖尿病のコントロールが悪いからといって食生活ちゃんとしてねと外来で二言三言話して、慢性疾患管理加算にチェックをいれても何も解決しない、そういう視点も欲しいじゃないか、ねえ、と。

バリキャリ女史曰く、医療者の多くは一応は接客業の側面を持つにも関わらず横柄な態度を取る人も少なからずいる。サラリマンは仕事をもらうが、医療者はむこうが見て欲しくてやってくるから、まあ違うんだけど。その顧客だけど純粋な意味で顧客ではない、といった医療者患者関係の改善に貢献できるタイプの何か仕組みなどあればいいな、と。

真面目な話なものだから、僕は話すこともなく隅でみんな意識が高くて(そしてあなたがたは僕の作った軸のどこに位置する人々なんだろうと考えながらも)すごいなあと思って小さくなりながら石垣島ラム酒の注がれたグラスを延々と傾けていた。意識の高い人々の集まりだったので、ヴィーガン専門店の飲み屋だった。ラフテーはいつまでたっても供されない。当然蒸留酒ばかり飲むことになり、そのうち酔いが回ってくる。だんだんと突っ込みをいれたくなり、とうとう話にチャチャをいれてしまった。

(勿論もっと柔らかい言い方をしたんだけれど)お話中失礼いたします、僕思うんですけれど、患者さんと良好な関係を築くことは患者満足度には繋がるけれども僕の満足につながりますか? 意識の高い人というのはえてして自己肯定感や承認欲求のために患者満足度をオカズに自慰行為に耽りがちですが、そうでない医療者(※2)が患者さんのためにと善意で頑張ることに何のメリットがあるんでしょうか。訴訟のリスクが減るとか、そういう実利的メリットはあるかもしれませんけれど、そうでないなら別に頑張っても給料も変わらないし、僕自身の幸せが増えるわけでもないのにどうして患者関係を改善しようとするんですか。先ほど話されていた顧客云々の話、それなんですが、僕らはその満足度を追求しなくても家族で年に一度バリ島で遊べるくらいには稼げるんですよ。そこを頑張らないといけないという動機付けがいつも置き去りになっていませんか。医療系ベンチャー等で意識の高い層と触れていると気が付かないかもしれませんが、患者満足度と自分の幸福の二つの軸の角度の大きさは人によって異なるんですよ。

みんな立派だったから意識の低い僕をバカにしないで、よしよし君はそう思うんだね、無駄や非効率性や慣習の慣習性を忌避して自己の幸福という到達点に向けて常にシステムの最適化を求める思路は(おそらく嫌味ではなく)大切な視点ですよねと言われた。偉い人が偉いのはやっぱり偉いからなんだなと。みんな大人だ。周囲の優しさに生かされている。話し終えてから僕は医師としての適性がなさすぎてそのうちわたし自身の存在すら消えて無くなるのではないかとおびえていた。というのも、今更わたし自身からこの職業を取ってしまったなら、残るのは硬くなった肝臓とひねくれた厭世的で根拠のない自信と自信のなさの崩れそうなバランスの上にやっとこさ乗っている不健全なメンタルだけではないのか。

どうして僕は純粋な善意や勉強の意欲といったものに対して不自然なまでに懐疑的なんだろうか。そこの病理がサッパリ分からない。最近そのことばかり考えている。

1年生が病院見学に来ていた。総合診療医に興味があるという。みんな聡明そうである。「先生はどうして病院総合診療医として働くことに決めたんですか?」そのつぶらな目に僕は応えることができない。彼らの瞳には何者にもなれない自分自身への苦悩の濁りがあまり見えず、思い描く素敵な漠然とした未来が目の奥に光っている。

おそらく僕がここにいるのは、何者にもなれない自分自身との決闘を選択してしまったからだ。僕は現状何者にもなれていないし、何者かになれる気もあまりしていない。多くの人は何者にもなれないけれど、何者にもなれないなりの幸福を生きるし、何者かになれた人々の物語がネットの発達によってあまりに僕らにとってリアルに見えるから、自分が大それた物語の主人公になった気がするだけだ。

けれども、モンテクリスト伯フロド・バギンズになれなくても、『武蔵野』とか『小僧の神様』とかの主人公に僕らは十分なることができるし、それだって十分に素敵な「何者か」なんだよね。しかしこんなことを考えていて一体何になるんだろう。何も僕の幸せない貢献しないことを、考え続けずにはいられない。これが病気でないなら一体何だと言うのか……。制吐剤が欲しい。

 

(追記)

今気づいたんですが引用先のブログにも『武蔵野』が出ていたしたね。あれ書いている人本当に他人とは思えない。

 

※1 もともと総合診療医系の学会が複数あったものが一つにまとまったものがプライマリケア連合学会だという。その中で僕らは違うんだと分裂したグループが病院総合診療医学会を作ったとのこと。病院総合診療医の先生方が理事とかそういう役職もあまりなく、居場所のない感じがしたからという話をきいたんだけれど、僕としては家庭医等の先生方に民医連関係者が多く、共産党臭さが強くて、そういうのと関わりたくないからと分裂したんじゃないかなとかってに邪推している。ただ、自治医大系の地域医療振興協会の人々はプライマリケア連合学会に所属しているんだろうか? あそこは政治的な香りがしないので、その系統の人々が理事等に多かったらたぶん僕の勝手な説は外れているんだと思う。調べるのが面倒なので調べていない。

※2 医療者になるような人は大抵その手の人種(つまり患者満足度で自分も気持ちよくなるタイプの人間)だから問題になりにくいという話にもある、DV夫に殴られながらわたしにも悪い所はあるし、何しろこの人はわたしがいないもダメだもの、と話す妻の精神構造に似ていると僕は思う。