ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

Tinderの話

 店の中に入ると建物自体は一般的な定食屋なのに、異国の耳慣れない音楽と昼からビールをのみつつポルトガル語と思われる言語を話すおじさんとおばさんと若者のグループが大皿にもられた食事をつついていた。

 「せんせ、私のことブログのネタにするんすか、うわあ」

対面でペルー料理の意味不明なカタカナで書かれたメニューを眺めながらtinder女子は難しい顔をしている。

 何か月か前に「Tinder始めてみたら、私はこれでセフレみつけておまたの乾く時間がないくらいよ」と言われた。そうして素直な僕は暇な女子大生なるTwitterアカウントにより一躍有名になったそのTinderなるマッチングアプリをインストールしてみたのだった。位置情報を利用して相手との距離(地名は明かされない)とプロフィールが表示される、そして女の子の画像を右へ(好き)左へ(嫌い)とスワイプする仕分け作業に興じて楽しく過ごしていた。お互いに好きの方にスワイプすると"It's a match!"と突然でかでかと表示され、アプリ内で連絡を取ることが可能になる。

 たまに東京に行ったときに起動して、周囲にいわゆる丸の内OLというやつがおるのでは! と思って使ってみたりしたが、マッチした数人とお話してみても、連絡先訊くのも何か怖いなとか、本当に中身オッサンでないとは言えないしなとか、思ってイマイチやる気がでなかった。また、たまに「ヤリモクNG 真面目な関係求めています」みたいな女性アカウントの自己紹介があって、ぞわぞわした気持ちになった。スラム街を全裸で歩きながら「レイプNG」の看板を持ってるみたいな行為だし、もう少し冷静になった方が良いだろう。自分とその周囲を客観的にみつめる視点に欠けている。

 ある当直の夜に突然、アプリ内の女の子から連絡が来て、「新手の詐欺かな、個人情報は渡さないぞ、こちとらただでさえ大学の同窓会の名簿が流出してしょっちゅう節税のためにマンション買いませんかみたいなクソ電話が来ているんだ」と「ちんちんドキドキ」のないまぜになった気持ちでTinderをひらいて、アプリ上で当たり障りのない会話をしていたが、プロフィール画像に何となく見覚えがある、職業に「看護師」と書いてある。研修で他の病院に行ったときに知り合いになった看護師さんだった。TinderではLINEの連絡先を教えてもらうことが第一関門のようだが、僕はすでに連絡先を知っている。話のタネに面白そうだったので飯に行くことにした。それから陰毛をブラジリアンワックスで処理した話など傾聴しつつ準備万端マンだなあと思っていたら飯の日になった。ちなみに同期の女性研修医からは「絶対やばい子だけど優勝は簡単そう」とエールをもらった。

 デートの日、完全に僕の趣味でシュラスコ食べて飯トレする予定が、駐車場が開いておらず、その近くのつぶれそうな定食屋風のペルー料理屋にはいることになった。ペルー料理が何なのか分からないが、腹を減らしたBMI 27の26歳のオッサンの胃袋を満足させてくれる食事はきっとあるはずだ、ブラジルと近いし、シュラスコみたいな肉料理がペルーにもあるに違いない。きっと芋煮と豚汁くらいの差だろう。

 ペルー料理は想像通り肉肉した感じだった。色々な肉が盛られたプレートに乗ってきたチャーシュー風のなにかは絶品だったが、名前はわからない。豆を白っぽいソースで似たシチュー風の何かと緑のソースでスプーンでほぐれるくらい煮込まれた牛肉と生玉ねぎの酢漬けとライスが盛られた料理も名前はまったくわからないが間違いなくおいしかったし、結局食べきれずパックにいれて持ち帰った。

 昼時だったので客は絶えず回転していたが、僕ら以外には誰一人日本人が来ていなかった。客はポルトガル語話者が多いようで、店の人々はおそらくスペイン語を話すので通じないのだろう、時折日本語交じりで会話していた。こうやってピジン言語とかクレオール言語とかできていくんだろうなあ。そういえば、宜蘭クレオール宜蘭クレオール - Wikipedia)なる言語を去年あたりに知って音声を聞いたんですが不思議な感覚になって面白いですね。東北の高齢者の言葉(津軽弁 雑談中のおばさま。 - YouTube)と同じくらいわからない。ところでそもそもスペイン語ポルトガル語何となく似ているイメージだけれども、何となく通じたりしないんだろうか。(調べてみたら、それぞれ自分の言語を勝手に話してもお互いある程度通じるらしいですね。)

 そんなことを考えながら飯を食べて満足したら、彼女が袋からコントミンクロルプロマジン)を取り出して飲み始めた。袋にはほかにクエチアピンとパロキセチンが入っている。どうやら本物のメンヘラのようだった。

 どうしたもんかなと車に帰りの車に乗って、理解可能な感情には支持的に、理解不能な感情にはほんのり指示的に、ちょっと違和感のあることについてはそれってどういう意味だろう、と問診しながら運転した。希死念慮の強い時にオーバードーズしてしまったと言っていたので、僕と今日このまま別れた後に死なれたら後味が悪すぎる。リストカット若いころしていたけれど、今はしていないと話はじめた。医療者モードに僕が入ったのに感づいたのか、患者モードになってきたようだった。

「私にはそりゃあ色々とコンプレックスもあるけれど、私以上にイケてない人だって世の中には沢山いて、特にほら、私高校受験から失敗してFラン高校に行ったから周囲の人いわゆる底辺のDQNばっかりで、でもそんな内面が幼い人間も勢いで生エッチして子供作って、もちろん離婚とかする人もいるけれど、それでもマイルドヤンキーとして立派に再生産してさ、経済もまわして、立派だなって思うね、あの手の人たちに足りないのは内省と知性だと思うけれど、まあ私はアレだけど、内省はすごくする方で、常に自分の何がいけなかったかとか考えているんだけれど、そうしてそれができておらずに周囲に迷惑をかけながら多罰的に生きる人々を軽蔑しながら生きていたんだけれど、今になってみれば客観的にみて手首切ったりオーバードーズしたりしている私の方がダメダメなわけで」

何となく抑うつ気分だったようだけれど、そしてアウトプットが自傷行為になるのはアレだけれど、自己肯定感の低さや言いたいことはよく理解できたので、このまま家まで送っていくのもちょっと申し訳ないかなと思って映画『バンブルビー』を観ることにした。ビートル乗りの僕は観ること自体は前々から決めていたのである。

 『バンブルビー』は機械を模倣できる宇宙人が地球に来て記憶喪失になり黄色いビートルになって、亡くなった父親を忘れられず、母が再婚してできた新しい家庭になじめない女の子と触れ合うというハートフルアクションSFである。どこかで聴いたことのある曲がBGMに多用されているのも良い。

 鑑賞後、帰り道で僕のビートルに向かって変身するように呼び掛けていたので、強く生きてくれと思いながら家まで送った。手首を切らなくなったのは自傷行為がTinderでの出会いに形を変えただけなんじゃないかと言ってみたけれど、本人は否定していた。本当はどうだか知らないし、僕がどうこう口をさしはさむ話でもない。

 ストレスをため込まない簡単な方法は多罰的になることだけれど、自罰的や無罰的な人間が多罰的な人間を見下してしまうのは、その特性が自分の幸福にとって何ら利益にならないのに捨て去ることができないからだ。捨てることのできない無駄なものは、捨ててはならないものだと思ったほうがずっと精神衛生上良い。自己肯定感の低さを、尊い内省の賜物と考えると、少しは救いがある。

 先ほどツイッターを眺めていたら、新しいお札の肖像について、これ誰だよと文句を言うより、こんな人がこんなことしたんだなと世界を広げられる豊かな生を送りたいといったような趣旨のツイートが流れてきた。そう、このツイートを読んでこの記事を書くことにしたのだった忘れていた。

 無罰的な僕は自罰的な女性と謎のペルー料理を食べて満足な休日を過ごした。多罰的人間だったら、シュラスコの店の駐車場が開いていないことにイラついて美味しいペルー料理を楽しめなかったかもしれない。

 とにかく、精神科面接実践編のデートはこうして幕を閉じた。時たまLINEでメッセージが送られてくるのでまだ自殺はしていないらしい。そういう点で優勝でなくても、とりあえずこのあたりが局地的勝利なのかもしれない。婚活に大金をつぎ込んでいる指導医にこの話をしたら「それ患者になるからやめた方いいよ」と適切なアドバイスをもらった。僕もそう思う。終戦にしなくてはならない。客観的に内省してみても。