ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

限界高齢者の話

 もう死ぬんでいいよ

 と話す超高齢者に何度僕はCVC(クソ太い点滴)を挿入してきたのだろうとふと考えると暗い気持ちになってくる。話せないレベルの人でも暴れて抗おうとするが、必要な処置ですからねと押さえつけてしばりつけながらいれたりする。別に必要じゃないよなあと思いながら。せん妄老人のうめき声がそこここに響く病棟に入って回診をする。清潔感ある新しい病院であっても朝の処置時間には糞尿の臭いが立ち込める。枯れ枝のような生気のまるでない高齢者や永遠に自分の唾液に溺れている高齢者がうつろな目で天井をみつめたり寝たりしている。もう少し元気がある過活動型せん妄の患者さんはスタッフステーションで車椅子に縛り付けられて怒号をあげたり、拘束衣を切ろうともがいている。また、おとなしい時は塗り絵をしたりしている。たまに些細な所作から元の人格が透けて見えたりするとなんだか切ない気持ちになる。絶え間なくアラームが鳴るが、アラームの閾値が不適切に低いので誰も危ない状況だとは考えずにアラームを急いで見に行くことはしない。もう年なので侵襲的な処置は別にやらなくてもと言う家族もいれば年金が高いのか医療行為自体とその先に対するイメージが希薄なのか何なのか分からないが全部やってくださいと話す家族もいる。全部ってこういうことだよ、という話をするが遠く離れた世界のことのように聞こえるのか理解してもらえないこともしばしばある。おそらく境界域くらいの知的障害者の数は僕らが普段感じているよりずっと多い。我々って年を経るごとに職種や階層が別れていき、自分と均質な人間と多く付き合うようになるのだが、医療職に関しては働き始めた瞬間に誰とでも付き合うことになる。こういう知性の階層のギャップに気がつかないタイプの人間は一定数いて、他者の知性に対して過剰な期待をしているが、思っているよりずっと周りの人間は論理的な思考や抽象的な思想というものに対して鈍感だ。とはいえ、田舎だからか大抵の患者さん家族からは病状のすべてを理解するよりも医療者の思うベストに沿うのがベストだと思います、というような思想を感じる。この手の病状説明のことをinformed consentと呼んでICのセッティングしておいて、などと話すがこれは原義から遠く離れた父権主義的病状説明と意思決定を指しているのが実情だろう。

 先日スコセッシの映画の『沈黙』を観た。ハリウッドなのにつっこみどころの少ない良くできた日本の情景描写がきれいだった。茅葺き屋根にしたたる雨水が良い。長崎、キリシタン弾圧の中、布教にきたイエズス会の神父の話だ。弾圧される人々をみながらどうしてこんなにも苦しまなければならないのかを思い悩み、自分が非キリスト教徒である野蛮人の日本人を正しく改宗させずにいれば人々は死なないし、どうしたら良いのか、神さまどうしてあなたは沈黙しているのかというような話でした。日本人にはキリスト教が馴染まないし、布教しても完全に彼らの思うキリスト教ではない異質な何かに変貌してしまう、この文化圏には合わないのかもしれないね、みたいなことも言及されていた。

 ツイッターでニューヨーカーが電車の中で歌い始めて、乗客もまざってみんなで合唱しはじめる、といった動画が流れていた。意識高い系のツイッタラーはニューヨークのこういうところが好きなんだ、と話していて感情の表出や見知らぬ人々との交流が好きなヨウキャさんなんだなあと考えたりした。国民性という言葉を聞くと、文化と脳について考えてしまう。おそらく我々は電車で誰かが歌っていても統合失調症なのかなと思うことはあっても混ざって合唱したりしない。これは純粋に文化の問題だけど、それが脳の器質的な差からくるのか、島国だったり温帯だったり単一民族が多くを占めているといった環境の影響なのか、そして後天的に外的な文化的なシャワーを浴びることで脳に器質的な変化が起こって国民性と言われるものが形成されるのかみたいなところを示した研究はないんだろうか。脳の器質的な差を見るのは難しいかもしれない。けれども、海沿いや山奥や都市部といった差と人格の影響があるのかとか、それが文化圏によらず日本の内陸とキルギスボリビアの人々で気候や生活の豊かさ(ビッグマックの値段と賃金などを指標にしても良いかもしれない)を補正すると同じ傾向があるのかとかは気になる。ただ、アンケート法で調査した場合にアンケートに答えてくれる人というだけでかなりサンプルが一般市民からかけ離れてしまうことが予想される。ランダムな電話調査にして脱落数が少なければそれがベストかもしれない。この手の論文があるのかどうかすら分からないし調べる手段もない。自分に無縁な領域について文献を集めることは本当に難しい。

 僕は総合診療医になってしまった、という言い回しを使うことがある。自分の人生の責任を自分で負わないタイプの物言いで、そのフレーズを用いる度にイケてないなと感じる。生い先短い人々の終末期の病状説明を行う時に感じるのは責任の所在が自分にあることに対する恐怖だと思う。アラバマだかオハイオだかの遠い親族がやってきて、お前がこんな決定をしたのか、と実際に詰め寄ってくることはないのかもしれないけれど、判断に責任が伴う時に罪の意識を孕んだりしてしまう、のだと思う。少し前にACP(advanced care planning)を人生会議と名前を変えようと厚生労働省が言っていたように思う。これはまさにこの罪の意識の軽減に寄与するものだ。わたしはこの身近な親族に少しでも長生きしてほしいと願わなくてはいけないかもしれないが、この本人がもう終わりにしてくれと思っているはずだとみんなが思うならそれを尊重しなくてはならない。そしていざという時に本人の思考をエミュレートするために会議がとりもたれ、まだ起こらない好ましくない事象について本人がどう判断するのかの根拠を得ていくことで、それが仮令未知の事象であったとしても判断をしやすいよね、という話だと思う。少なくとも僕はそう解釈している。つまり責任の所在を本人にうつす行為に他ならない。

 以前はこういった取り組みが、誰も幸せにしない僕らの行う医療行為を激減させると信じていた。今はあまり信じることができない。脱水と口渇とは違うことを知っているし、末梢点滴をするか、それすらせずに本人の苦痛をとるだけの選択肢があることを知っていて、それらを家族に提示できると思っていた。結局のところ、末梢点滴のみの患者を療養病院は儲からないから受け入れたくないし、食べられない点滴もしない患者を何かあったら嫌だからと施設も受け入れてはくれない。ただ静かに何もせずに死を待つだけの人々の居場所がそもそも用意されていない。薬剤耐性菌について心配するなら根本的な治療のできない嚥下機能が廃絶した高齢者の望まれないCVC-TPNや胃瘻を減らすべきではないのかな。平穏な死の選択肢を消し去ったことで、NHCAP(老人ホームとかで起きる肺炎のこと)は激増する。療養病院では抗菌薬の適正使用はされない。先日聞いた療養病院の話。誤嚥性肺炎には一番安いという理由からPIPCが使われる。ちなみに経鼻胃管の挿入の際にレントゲン撮影を行うと叱られる療養病院もある。勿論レントゲン撮影を行わない場合に気管に挿入されていて栄養剤を注入されたら死ぬこともあるだろうし、これで訴えられたら負けるに違いないがレントゲンを撮ることは経営上不適切のため禁じられているらしい。何をやっているんだろう。

 患者家族にばかり責任について考えさせる非対称的な関係性について問題にしている人を見かけないのは僕の意識が低いからなんだろうか。僕はこの責任の問題が日本の文化圏で終末期の話を行うことのハードルだと認識していたのだけれども、施設や病院の受け入れ基準といった医療介護側の要因も大きなハードルになっているなと感じる。人生会議とします、とか名前を変えることを考える暇があったら非ガン患者の死を待つ場所をつくってくれたら良いのに。