ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

病院の話

 おはようございますと言うと返事が返ってくる人ばかりだ。消化器内科を回るようになってから限界高齢者から解放された。限界高齢者というのは私が勝手に作った名詞で、要介護5くらい寝たきりで常に自分の唾液を誤嚥していて意志の疎通が全くとれない本来なら療養病院や施設でそのまま何かあっても看取りにするのが人道的なのに、発熱したとか理由をつけて病院にやってくる人々だ。

 先日Twitterで某医師が、限界高齢者を施設→急性期病院→療養病院→施設という不毛なサイクルに投げ込んで期限がきれないように回し続けることについて呟いていた。この不毛なサイクルの不毛さについて、知らない読者もいるだろうから書いておきたい。本当に不毛な無間地獄である。

 まず、研修医が行くような急性期病院の多くはDPC病院=病名に対して入院期間に応じてお金が出る病院になっている。つまり、同じ肺炎でも最初の何日かは1日あたりの診療報酬が高いが、日数を経るごとに少しずつ1日あたりの診療報酬が減っていく。元気になった患者をいつまでも入院させて病院が入院費を儲けることはできないし、基礎疾患があってちょっとした肺炎でもなかなか退院できない超高齢者などは入院期間が長くなってくるといつ退院してくれるんだどんどん病院が損していくぞ、みたいな話になってくる。(ちなみに胃カメラとかは手技として別に病院にお金が入るから問題ない。また、一部の薬も薬代が別に病院に入ることになっている。例えばトロンボモジュリンという薬は別会計なので使うとそれなりに病院の利益になる。ちなみに生命予後を改善するエビデンスはない高い薬である。)だから落ち着いたら急性期病院から診療報酬の仕組みの違う療養病院へ転院しなくてはならない。

 ただ療養病院に空きが出るというのは大抵患者が亡くなることを意味するので、そんなにすぐには病床が空かない。すぐに転院できない時は間に地域包括ケア病棟というこれまた少し診療報酬の算定基準の違う病床が急性期病院にもいくらかあり、そこで転院や退院の調整をすることになる。また療養病院にも色々と縛りがあって、それなりに医療が必要な人でなくては入院することができない。例えば中心静脈カテーテルによる栄養などはその最たる例で、それが入っていれば療養病院も利益になるのか、あるいは入院患者の何%以上に入っていないといけないといった決まりがあるのだったか忘れたが、すぐに転院を快諾してくれる。一方で大した医療的処置が要らないのに喀痰吸引だけは夜中も必要な場合などでは施設だと無理な場合もある。喀痰吸引を夜中にしてくれる施設はほとんどないのだ。なぜなら介護士さんは喀痰吸引をできないからで、必然的に夜中にも看護師さんがいないといけなくなる。不思議なことに自宅で面倒をみる場合に家族は吸引しても良いことになっている。何の資格もない家族がよくて介護士がダメなのは謎である。

 ここで、喀痰吸引を夜中にもしないとすぐに肺炎になる高齢者について考えてみよう。方針としては中心静脈栄養か胃瘻だろう。他にもPTEGといった胃瘻の仲間みたいなもの(食道からアクセスするのでお腹ではなく首から栄養が入るもの。胃瘻は内視鏡で作ることが多いが、中には横行結腸がかぶるなどで造設困難なこともあり、そういった場合に開腹術をしてまで作ることはないだろうって時に選択肢にあがることがある)もあるにはあるが、施設が慣れていないなどの理由から行先がなくなってしまうことも多いので現実的には選択されない。ここで、ご家族の希望で胃瘻は嫌だし、中心静脈栄養もしてほしくはないなどとなると行き先は困難を極める。とりあえず、夜間の喀痰吸引など諦めてもらって施設に行ってそれなりのケアになるだろう。当然数週間、場合によっては数日で自分の唾液を誤嚥するので再度肺炎になる。肺炎になると再び急性病院に送られてくることがある。家族には誤嚥性肺炎が寿命の一形態であるという認識がない。実際に抗菌薬を投与すれば確かに解熱はするから感染症的な側面もある。我々は適当なタイミングで面倒をみてくれる施設に送り込むが結局根本的原因、アルツハイマー脳梗塞後遺症による嚥下機能障害には介入できないので、頑張ったところで絶対に肺炎を繰り返す。

 だからこれは寿命を見ているといえる。しかし急性期病院は純粋な医療の場なので、これは寿命ですよ、とは言えない。介入可能な問題がたとえ一時的であったとしても存在するなら抗菌薬を投与して、場合によっては輸液負荷やノルアドレナリンを使用して、嚥下機能障害の原因となりうる薬剤を除去して、口腔ケアを行い、ベッドの頭側を30°アップさせて、食形態の調整を行う。しかし絶対に肺炎を繰り返す。根本に介入できない以上、問題の先送り以上のことはできない。

 療養病院では中心静脈カテーテルの入った寝たきり高齢者が沢山並んでいる。せん妄になって大声をあげる元気のある高齢者はそこにはあまりいない。だから窓から溢れる日差しが静かな病棟を照らすのだ。ちなみに次はカテーテルが入っている限界高齢者の血流感染について書こう。異物が入っているので当然感染の原因となるし、血管に留置されているので感染したら当然菌血症になる。同じ患者でも急性期病院にいればカテーテル関連血流感染(CRBSI)になれば当然MRSAを起因菌に想定してVCMを使用する。そして当然解熱する。勿論これは抜ける見込みのない点滴なので、これまた絶対に再発するタイプの感染症である。VCMは抗MRSA薬というグループに属する抗菌薬で耐性菌を狙い撃つようなものだから厳密に使用しないといけない。確かにCRBSIではVCMが必要になることが多いし、これは正しいように思える。しかし限界高齢者のCRBSIは何度も繰り返すしこれも誤嚥性肺炎と同じで根本的な解決はできない。その感染の原因となるカテーテルを抜いて永遠に入れないことを決めたなら脱水と低栄養で死ぬからだ。それなら最初からそんなカテーテルをいれなければよかったのだ。ではなぜ入れたのかと考えると、カテーテルを入れないと療養病院には行けない。嚥下機能が廃絶していて夜間も喀痰吸引が必要なら療養病院に行かなくてはならないし、療養病院に行きたいならカテーテルをいれなくては行けない。

 本当にカテーテルも入れたくない、胃瘻もしたくない、でも喀痰に溺れて苦しそうにしているのは可哀想だ、となると家に帰るしかなくなる。しかし帰ることは基本的にない。なぜなら飯を食べない死ぬのを待つだけの寝たきり高齢者が家にいるのは家族にとって何となく不安だからだ。限界高齢者であっても家族としては何となく死なれるのは嫌だから治療は希望する。治療しないという選択肢を選び取ることに罪の意識を覚えるからだ。そしてその結果として適切な治療を繰り返しされて、少しずつ弱っていく。

 ちなみに安定したタイミングで療養病院に行くとすぐに亡くなる。そこでは適切な治療はされないことが多いからだ。急性期病院で適切な体液量や電解質の管理を厳密にされて、適切な抗菌薬使用により少しばかり運命より長生きした高齢者は療養病院でCRBSIの際に効かない抗菌薬を流されたりする。例えば、某療養病院AではPIPCは院内感染で問題となる緑膿菌をカバーしている上にお値段もとても安いから頻用される。勿論効かないことも多いがそんなことは患者家族にはわからない。それで効かなければより高域の抗菌薬を解熱剤がわりに利用する。それで解熱しなければ家族の希望に応じて急性期病院に転院搬送する。感染症の際に培養をとるのが正しい医療では必須でそれがないと何が悪さをしているのか分からないのだが、安く高齢者を寝かしておくことが第一である療養病院で正しい医療をしても仕方がないのでそんなことはしない。評価されない努力をしても仕方がないからだ。某療養病院BではVCMがない。つまりCRBSIになったら死ぬ。もともと比較的健康な人の急性膵炎やら心筋梗塞やら敗血症性ショックなどを見るはずの急性期病院の中に、不必要な正しい医療を受けながら耐性菌を生むだけの生きる培地として全ての自己決定権を奪われながら家族の死んだら何となく嫌だという感情のためだけに横たわる老人たちがいる。これが不毛でなくて何だ。どうせ療養病院にいったら不必要な医療なくすぐに不適切な医療によって亡くなるというのに、急性期病院で正しい医療をして、そもそも医療で改善できない状態の何一つ根本的な解決のできない人間に医療の立場から何をしてくれというのだ。

 

 

 消化器内科になってからは不毛な行為が減った。勿論総合診療科時代にも不毛でない人も沢山いたけれど。みんな良くなって帰っていく。けれども、消化器内科医は元気な人の消化器内科以外のプロブレムに介入しない。ポリファーマシー絡みだと、不必要なスタチンをやめたり(そもそも年齢的にエビデンスに欠けて適応にならないことも多いが場合によっては吹田スコアを利用して禁煙外来や高血圧のコントロールを食事指導をいれて良くすることでLDLがある程度高くても許容できる人も出てくる)、ベンゾジアゼピン睡眠薬を減量したり、不勉強な開業医がフロセミドだけでコントロールされている心不全(というかHFrEF)に長期予後改善薬を追加したり、介入できる原因として手術適応となる弁膜症があるのか虚血の関与は否定できているのか、ということは考えない。入院というものは今それなりに元気にしている多分このままだと元気でなくなる人に介入するチャンスなのだが、専ら手技が忙しいのでそれどころではない。病院総合診療医が医療的介入を行うことで長期予後の改善を望める人がいても吐血だけ止まったらPPIを盛られて帰るのは何だか切ない気持ちになる。その横のベッドで限界高齢者は正しい医療を受けながら天井を見つめている。

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病院の窓から見える景色がとても寒々しい。