ぶたびより

美味しいご飯が好き

アラサーの悩みとか

 「またほらそうやって卑屈になって!!」

最近の流行はオンライン飲み会だそうで、かく言う僕も居酒屋に行くのはハードルが高いしなということで、ちょっとリッチにシャウエッセン(茹でてる時の香りが好きだ)とか半額のお寿司だとかを買い込んで、時には生のチキンラーメンにそのままかぶりついたりして(旨味の塊である)画面越しの相手に酔っ払ってベタベタと絡みながら、よなよなエールを喉に流し込んでいる。あと最近はフライパンに最小限の水を入れてコンソメ混ぜて沸騰させてパスタを茹でている。ここに熱したオリーブオイルと刻んだニンニクに豆乳をいれてチーズを溶かし込んだソースを混ぜてクリームパスタを作ったりしている。少なめの水なので、濃い茹で汁ができて乳化しやすいのだ。

 話がそれた。とにかくpairsで仲良くなった(と私が感じている)おねえさんは時に画面の向こうから私の言葉の端に卑屈さを感じてそんな指摘をする。そうか私は卑屈なことを言ったのか、と思う。

 卑屈さ、自己肯定感、根拠のない自信、再生産や生殖(それはつまり婚活的な何か)や所謂自分の人生を生きる期間などといったワードが頭の中に析出してからぐるぐると回り始めて何年も経つ。そろそろ沈殿物を形成しているように思うので、そんなメンタルのドブさらい的な記事を書いてみようかなと思った。こういう時に何かを書くことは、そう、小汚いメンタルのオリを除いてすっきりとした上澄を残す行為のような感じがして好きだ。除霊とか悪魔払いに近い。ナーム。

 

 根拠のある自信みたいなものがずっと欲しかったのだがなかなか得られたことがない。周りにいる何か自信たっぷりの人にあるのが大抵根拠のない自信のように感じてしまうのは僕の認識の歪みなんだろうけれども、とにかく羨望と軽蔑のないまぜになった感情を覚えることはたしかだ。

 客観的に自分を評価しようとする試みと自信を持つこととは相性が悪いように思う。「真に客観性のあるイケてるわたし」を得ようとしたらそれはもうとんでもない労力が必要になる。そもそも自己評価は相対評価によってなされることが多く、多大な努力の先で立派になったところで周りには才智に満ちたより立派な人がぞろぞろ立ち現れるだけだろう。立派になればなるほど自分の瑕疵に目がいってしまうに違いないのだ。

 自己評価の多くの部分がその人の認識する相対評価によって成り立っているという仮定を受け入れた時、自己評価の高い人間というのは自分の居場所が適切でないと思っている人間ということになる。周囲の人間より僕のが立派やぞ! みたいな精神性が根拠のある自信に繋がるとしたら、それは嫌な人間だし、自信家という言葉に悪意が含まれることに納得がいく。過日購入したお嬢さまことば速修講座でもそんなことが書いてあった。

 「本人は客観性が保証されていると思っている(ひょっとしたら勘違いかもしれない)相対評価に基づいた自信」が周囲の他人を小馬鹿にすることでしか成立しえないのだとしたら、なんだか切ない気持ちになってしまう。そして自信のあるお方々を自己評価が適切にできないだけでしょうと僕が話すのもこれまた悲しい抵抗だしとても情けない話である。

 そういえば泥酔していた時に条件に依存しない愛情というのはママ的愛なので、全てを愛して欲しくて若年女性にママバブゥバブゥというのは理にかなっているのだということを言ったことがある。でも感情にいちいち根拠をもとめる態度はいけてないのかもしれない。晴れたすずしい日の朝に高層湿原をお散歩したら何となくいい気分だし、そこにseasonal affected disorderに於いてbright light therapyを施行することにはそれなりのエビデンスがあるわけで健常な人でも明るいところをお散歩するのは気分があがるんじゃない? みたいな話をする人間は友達がいないのだ、第一ちんちん小さそうじゃないか、ちなみにわたしは2ミリメートルくらい。

 自信がないのは私の特性に過ぎない。脳の器質的な特性やそこに生育歴という刺激が加わって進化の過程で獲得してきた脳の可塑性によって特定のチャネルが増えたり発火の閾値が変わったりしているだけだ。日本語によって成立している僕の思考から生まれた根拠が、これらの脳の器質的な特性や変化について説明可能だとは思えないし、そこから自信のなさというマクロな精神運動にまで連続して説明するのは不可能に近い。

 20代が終わるころまでに伴侶を見つけたり仕事が落ち着いたりして、人生の大部分のイベントをこなすんだ、という話をカウンセラーの方がTEDでしていてそれを冒頭で紹介した件のpairsのおねえさんがリツイートしていたのが先日目に止まった。

 たしかに私の母は25で私を産んで、34歳で離婚して実家に帰って来ている。25から先はほとんど子育てに使っている印象がある、そして今は私の祖父の介護をしている。彼女にとって真に自分の人生といえるのって子供ができるまでの25年間にすぎなかったんじゃないかと思う。

 自信の話で思い出したのは『山月記』だ。初めて読んだのは両親が離婚して田舎に引っ越して1年くらいがたった小学5年生の頃だった。当時の僕は辺鄙な山奥で話が合う友人もロクにおらずインキャライフを送っていた。近所の個人でやってる化石の資料館(教室二つ分くらいのスペースしかない)にいるおじさんとたまにお話して古生物学者とかいいなーと思ったのをぼんやりと覚えている。とにかくそんな少年の波長には会うタイプの作品だ。

 しかし今になってみると「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」という努力せずに中途半端な才能にかまけてしまったことを後悔する男の台詞は生殖/再生産についての話に見えてしまう。

 この年齢になって考えてみると、自己肯定感がどうとか、何者にもなれない話なんていうものは妻子持ちの人間のセリフではないことに気がつく。結婚/生殖の頂を目指してもがくのは、自分の人生を生きることに疲れてしまったからなんじゃないか。この手の高尚な悩みをより偉大な生産性が薙ぎ払ってくれる。大した才もない人間が身一つで生産的なことを行うのに30年という時間は長いんだ。何者にもなれない苦しみと婚活というのは無関係なようでいて、アラサーに共通した表裏一体の感情なのではないかと最近感じている。

 根拠のある自信の不可能性は何者にもなれないアラサーの苦悩に通底している。そして何者にもなれないアラサーは婚活を始めるのだ。エッチなビデオをみることと仕事と飲酒以上に価値のあることを自分単独でできないと感じた時に。

 おうちでつくる茹で汁濃いめのパスタは乳化した油がパスタに良く絡んで美味しい。混ざり合わないように見える婚活欲求や卑屈さの周辺で、仲良くしてくる人と出会っておいしく乳化してくれたらいいのに。乳化というとオッパイの話みたいだが、断じて違う。わたしは高尚で生産的な話をしているのだ!