ぶたびより

救われたい

スギ花粉、受容と共感

 こんなにも快晴だというのに露天風呂から見える近くの山が霞んでいる。花粉症の季節が来た。

 学会のため金曜日からお休みをいただいていた。このタイミングで丁度電子カルテの更新作業が入るのために救急外来は全てストップしている。更新してくれと頼んだ覚えは別にないのに、一体誰が何の権限で行ったのだろう。ともかく外来は完全ストップしているので、新規に患者が入ることはなく、基本的には落ち着いているはずだ。

 家にテレビを置いていないせいでテレビをみる習慣が全くなくて、先日空港で久しぶりに見たら世間はCOVID-19の話題で持ちきりのようだった。どうにもワイドショーの類には神経を逆撫でさせられる。感染症専門家vs市民代表みたいな構図がいけてない。ここは戦うものではない。市民代表がお気持ち主義のゼロかイチかの話をしていて不愉快であった。若い人でも死ぬことはあるんですよねとか、受診や検査の域値は下げて欲しいとか。まあ若い人の死亡だってあるにはあるけれどそれは可能性の話だからな、我々が風邪薬をのんでTENになって死ぬ可能性だってあるし、CT撮る時の造影剤でCPAになる可能性もあるわけだ。悪い転機となる可能性だけでなくて、スクリーニング・受診域値を下げすぎることのコストやデメリットの話も併せてしなくてはいけないのにお気持ち主義者は自分のお気持ちの納得と決まったゴール(検査や受診をしたい)にのみ興味を持ってしまっていて、論理的な正当性には興味がないので議論が成立しないのである。多くの場合において安全だといくら理詰めで言われても、ゼロリスクでないなら気持ちが許容できないのだ。

 ただこれにアホクサと言うのもやはり違っていて、彼らの気持ちに寄り添いつつも、行為はしっかりと正しいことを求めるスタンスでいかないといけないよなと思う。

 以前、HPVVの時も積極的勧奨の差し控えみたいな微妙なスタンスになってしまったのは、結局お気持ちへの受容と共感をしつつも勧奨は続けるという科学的な正しさを保つことができなかったことに端を発しているように思う。気持ちの受容と求める行為はダブルスタンダード風で良いと考えている。統計的な正しさはとくに有害な事象が起こってしまった時にはn=1を生きる彼(女)にはどうでもよくて、私の人生をどうにかしてくれという祈りしかないだろうし、その思いは正しいと思うの。その点で日本プライマリ・ケア連合学会が出していたHPVVの声明(https://www.primary-care.or.jp/imp_news/pdf/20190115_3.pdf)は良かった。

 以前に貧しいものに残された最後の娯楽が怒りだからね、といった趣旨のツイートを読んでからというもの、僕にはずっとこの言葉が忘れられないでいる。最近はあまり楽しいことについて考えることがなくなった。楽しいことって何でしたっけか。

 対立の構図はどちらの立場にとっても悲しい娯楽になることから、興味をかき立てられてしまうんだ。でもそんな不毛なことはやめてしまいたいよね。

 何かしら有益なことをしたいと思うと身動きがとれなくなってしまう。今日は寝て起きてケンタッキー食べて温泉に入ったら1日が終わっていた。夕陽をみると寂しい気持ちになる。働くことはあんまり好きではないのだけれども、休みの日に1人で生産的な何かができるほどの大層な趣味もない。

 楽しい気持ちになろうとしたら酒を飲むくらいしかなくて、アルコール依存症の人々の気持ちも分かるには分かるんだ、努力しないで幸せになるためには翌朝の二日酔いの気怠さと寿命を引き換えにアルコールを胃に入れて束の間の幸せを手に入れるしかない。

 今日温泉に行ったら、大学生と思しき集団が「この温泉ヌルヌルするな!」「精子ついた手を洗ってる時みたいだ!」「天然温泉だからだよ」「酸性だからだろう、精液も酸性だ、だからAV女優は顔にかけられて肌悪くなって劣化するんだぞ」と話していた。この温泉はアルカリ性単純泉だからヌルヌルするのだ、酸性ではヌルヌルしない。気持ちは分かるよ、ヌルヌルしてびっくりしたよね。

 了解可能なたくさんのお気持ちと闘わず幸せにならなくてはいけない。他人の信念をどうにかしてやろうというところがいけない。彼らは永遠に精液が酸性だと思いながらこの先の60年を生きていくのだ。でもそれで良いのだ。

 表現の自由絡みで中止に追い込まれた愛知トリエンナーレでは難民の数のスタンプを手に押されて部屋に入るとメンソレータムが充満していて無理やり泣かされるという作品があった。(https://aichitriennale.jp/artwork/A30.html)この作品と同じで、スギ花粉は我々個別のお気持ちへの共感と受容を生む現代芸術的装置として働いているのだ。わたしはそんなことはどうでも良いので、パタノール®️点眼液をつけました。

学会の話

 金曜日の朝5時、まだ空けやらぬ空をすし詰めの羽田行きのマイクロバスから眺めながら出す吐息は酒とゲロの臭いがする。学会で福岡に行くのだ。

 前日は当直明け、3時と4時に軽症患者が来院してほとんど寝られず研修医がイラついていた。ウトウトしながらカフェインをどかどか入れて夜6時には仕事を終わらせて病院を出た。自宅のスーツを発掘して新幹線で東京に向かう。途中でワンカップを飲みほろ酔いでいたら電車を間違えて羽田近くのホテルに着いたのは夜10時くらいだった。京急を初めて利用した。降りた穴守稲荷駅はどこか都会らしくない街並みで怖くない。漁師のおっさんのやってる居酒屋でアサリの天ぷらなどを食べたがカフェインで胃がやられておりホテルに着いたら胃袋をひっくり返したみたいな嘔吐をして泥のように眠った。飲み屋のおじさんはロシア美女の口説き方についてフェミニストがブチ切れそうなことを話していた。

 今回は病院総合診療医学会という小さな学会で、日本プライマリケア連合学会よりも病院総合診療よりの会、診断学とかそっち系が好きな人々の会だ。発表するのに面白そうな症例がいくつかあったのだが、一つは何故か先日糖尿病学会の地方会で合併症のセッションで発表してしまった。2つくらい他にもあったが研修医にあげてしまったので私のもとには症例は残らなかった。それでも何とかして福岡に行きたい私は診断エラーのセッションで出せるものを探した。診断エラーは臨床をしていれば絶対に経験する。誤診をしない人間はいないのだ。学会発表はしたくないけれども、九州には行ったことがないから一回くらい行ってみたかったので以前に誤診した症例を選んで載せた。

 しかし診断エラーを発表するというのは非常に難しい。えっ誤診を人前で話すんですかみたいな精神的なハードルは勿論のこと、ある診断エラーについて分析的に話すことは可能だけれども、それで誤診が減るかというとパッとしないという点もモヤっとする点ではある。エビデンスには乏しい領域だ。だからある一例の誤診を人前で発表することにどれだけ意味があるのかは分からない。ただ今までに一度も診断エラーについて勉強したことのない人が聴くと多分勉強にはなると思う。以下に貼り付けた論文あたりが診断エラーのレビューで、我々の臨床推論がどのようにされていくのかとか、そこにどんなピットフォールがあるのかとかそういう話が書かれてある。(https://qualitysafety.bmj.com/content/qhc/22/Suppl_2/ii58.full.pdf)(https://qualitysafety.bmj.com/content/qhc/22/Suppl_2/ii65.full.pdf)診断エラーの多くは知識不足ではなくて情報を統合するところやシステムの問題で起こっているということを認識しましょう、というような話。以下の段落はふわっと診断エラーの総論。

 実際僕らが普段どうやって診療しているのかというと、多分主訴を訊いて問診と診察して検査前確率などを考えてスクリーニング検査をオーダーしたりしなかったりの判断を行い、その結果に応じて入院するとか帰宅で良いとか専門医に相談とか決める。で、診断どうしてるのっていうと実際に全ての鑑別疾患を網羅的にあげたり論理的に診断を組み立てたりすることは実際のところあんまりしてなくて、パターン認識(酒飲みが腹痛できたら急性膵炎かなとか、でっぷりしたオッサンが冷や汗流しながら胸を押さえていたらACSだなとか)とか最悪のパターンの除外(この頭痛は脳卒中でないなら帰宅できるなとか尿管結石疑いの人ですと言われたら大動脈瘤の切迫破裂は否定したいなとか)などで大体やってるよねみたいな話になる。また、dual process theoryなんていう立派そうな名前がついてる臨床推論についての考え方があって、パッと見これでしょみたいなやつがタイプ1(とかシステム1)か言われてて、それで無理だと分析的なタイプ2とかって言われているもので例えば診断好きな総合診療医が良くvindicateとかって言ってみたりするアレを使う。あるいは、そこまで時間ない時なら例えば右下腹部痛っていわれたら右下腹部に存在する臓器別に疾患を考えるくらいはするかもしれない。尿管なら尿管結石だなとか腸管なら虫垂炎憩室炎だなとか、腹壁なら腹直筋血腫とかACNESとか、卵巣なら腫瘍の捻転とか卵巣出血とかを考えるくらいはやるかもしれない。医者になっていきなりぱっと見で診断がつくわけもないけれど慣れてくるとシステム1が使えるようになって楽。実際は2つの思考を行き来するらしいけどそんな観念的で脳科学的に何も証明されてないものだろうし僕はそんなのどうでもいいと思ってしまうけれども、とにかく慣れると直感的にかなりの確率で正しくて早い診療ができるようになる。これは良いことが多いんどけどたまにピットフォールにハマってミスする。(1がいいとか2がいいとかそういう良し悪しの話ではない。また、2でミスが起こらないわけでもない)で、そのピットフォールにこんな感じでハマったよ、というのが診断エラーのセッションの目的だ、と私は思っている。

 ただ難しいのは、例えばHALT(ハラヘリ、angry、late、tired)と言われる状況でミスが多いですよと先行研究で指摘されてますと言われたところで、じゃあ当直明けは働かないようにしましょうとかそういうことは少なくとも私1人で論じたところで全然現実的ではない。また、100以上の何とかバイアスという御大層な名前を情報の統合のミスに対して名前をつけてそれを勉強したところで、診断エラーが減るという確固たるエビデンスがあるわけでもない(エラーの勉強でエラーが減るという報告もある)。勿論まだエビデンスのない良さそうな介入について、エビデンスがまだないことを根拠に特にデメリットもないのに行わない、というのは科学的な態度としても正しくない。なので、診断エラーについて勉強することはきっと無意味ではないはずだ、と私は信じている。

 僕はとてもありがちな診断エラー症例を発表した。何も発表するものがなかったから。また、ありがちなものの方が聴いている人もなるほどなと思うかなと。以下は私はこんなの出したよ、という話。

 ※個人情報の問題について:以下の話はネットで見られる学会の抄録(http://hgm20th.com/wp-content/uploads/2020/02/%E7%AC%AC20%E5%9B%9E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%97%85%E9%99%A2%E7%B7%8F%E5%90%88%E8%A8%BA%E7%99%82%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E8%A1%93%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E6%8A%84%E9%8C%B2%E9%9B%86-20200221.pdf)の内容をほとんどそのまま転記したもので問題ないはずです。

 ショックバイタルで以前から黒色便があるらしい吐血患者が深夜に救急車でやってきて話を聞いたらNSAID内服してPPI内服してなくて採血したらBUN高値で貧血があり輸液に反応して大丈夫そうだなPPI入れて一応Blatchford scoreをつけて大丈夫なことを確認して、早朝まで放置して消化器内科医に内視鏡お願いしよ、と思って朝に電話したら入院時のルーチン検査のレントゲン(ルーチン検査だから見てなかった)でパンパンに膨れた腸管が写っていて普通に腸閉塞で嘔吐してマロリーワイスで、私が胃管入れなかったせいで誤嚥性肺臓炎になったごめんなさいというもの。

 他の人たちはみんな何だか難しい疾患の診断に難渋した話が多くて何だかなと思ってしまった。疾患についての説明もともすればエラーの分析以上に入っていて、このセッション何がテーマでしたっけ、というような……。あ、ちなみに吐血ときたら2次的なもの(絞扼性小腸閉塞、脳卒中で嘔吐してマロリーワイスとか)を考えるのは普通のことなんだけど、これを別に知らないから間違えるわけじゃないよねみたいな方が誤診症例としてはその構造を振り返ることが勉強になると思うのだけれどもなあ。血管内リンパ腫なんて診断がすぐにできないものでしょうそもそも、など思った。

 まあ良いです、良い。私1人、眠くてクソ誤診した症例をなぜか人前で口演で発表したマンになって恥ずかしいような気持ちにもなったけれど。良いのです、もう終わったこと。この手のケースはあまりにもありがちパターンなだけに、パターン認識でやっても本来なら誤診しないものなのでちょっと恥ずかしかったんですよね。研修医向け勉強会とかならアリ。

 ちなみに研修医2人も同じ診断エラーで出しており、ポスター発表やっていた。いたんだものを食べた後から下痢気味だった人を胃腸炎として帰そうとしたら絞扼性小腸閉塞だったとか(下痢→嘔吐の順番が胃腸炎らしくないとか嘔吐が噴水状だとか腹部手術歴とかたしかに後ろ向きに振り返るとまあそうかもって感じ)メンタルの意識障害疑いの生来健康な思春期マンが脳卒中だったとか(本当に怖い)私のよりもう少し勉強になりそうな内容で立派だなと思った。

 聞いていて面白かったのは、患者が虫に刺されたっていって3回救急外来受診して3回目でマムシ咬傷だと気がつかれたというもの。聴衆の中にマムシに詳しい先生がいて質問になぜか聴衆の先生が回答していた(ナニソレ)。マムシそのものを患者が見ていないと虫に刺されたって言ってくることあるけど、手を噛まれて手関節以遠まで腫れたり、よくみると2つ刺し傷があればマムシを疑いましょう、みたいな話が良かった。

 先日私はアシクロビル脳症の発表を何故かDM学会でやったので、帯状疱疹髄膜炎のポスター発表をしている研修医をみて微笑ましい気持ちになるなどしていた。帯状疱疹髄膜炎の診断って結構難しいと思うんですよね、何を以ってそう診断するんだろう。髄液VZV-PCRが頻用されるけれど、別に感度が高いわけではない。帯状疱疹髄膜炎は稀な合併症でガイドラインなどがないため単純ヘルペス髄膜炎に準じて治療する、というのが一般的である一方で、帯状疱疹患者に髄液検査で異常が見られることは稀ではないとの報告がある。この2つが同時に正しいとするなら、PCR陰性の帯状疱疹髄膜炎を見逃しているだけで、それでも問題のない症例が多いということを意味しているような気がする。薬剤性の無菌性髄膜炎の原因としてNSAIDsが有名(http://hospitalist-gim.blogspot.com/2018/03/blog-post_17.html?m=1)だけれども、帯状疱疹で内服するNSAIDsも影響して良い気がするし(これはかなり稀だろうけれど)そうなると本格的に帯状疱疹髄膜炎とは何なのか、という話になってくるように思う。

 今回は発表する人が多かったので、全然教育講演に行けなかったけどたまにはポスターを眺めるのも良いなと思った。大学の部活の先輩と後輩に会った。某有名総合診療科で勤務している先輩氏は尿路感染で細菌性髄膜炎を合併することがあり見逃し例が多い可能性がある(しかし見逃してもあまり予後は変わらないかもしれない)という発表をしていて面白かった。尿路感染でも髄液検査を考慮するシチュエーションがあるんだなというのは新鮮だったし、個人的には高齢者で意識の悪い肺炎患者に髄液検査を行うかどうかという悩みもあって(血液培養で肺炎球菌でも生えればやるだろうけれど、肺炎球菌は培養で生えにくい菌だから否定には使えないだろうし、意識がかなり悪いならやるしかないんだろうけれども、認知症とかあって熱があればまあこのくらいの意識でも良いのではと考えて行わない選択肢をとることが実際には殆どだ。侵襲のある検査だし忙しいし。)、この手の悩みはつきないなと。

 とにかく診断エラーの発表って恥ずかしいなと思って、もう2度とやらないぞと思いながら発表終わりに酒を飲んでいた。翌朝は二日酔いで、2度と酒を飲まないぞ、と誓ったのだが多分また飲むのだろう。でも診断エラーはもうやらないかな本当に。

病院の話

 おはようございますと言うと返事が返ってくる人ばかりだ。消化器内科を回るようになってから限界高齢者から解放された。限界高齢者というのは私が勝手に作った名詞で、要介護5くらい寝たきりで常に自分の唾液を誤嚥していて意志の疎通が全くとれない本来なら療養病院や施設でそのまま何かあっても看取りにするのが人道的なのに、発熱したとか理由をつけて病院にやってくる人々だ。

 先日Twitterで某医師が、限界高齢者を施設→急性期病院→療養病院→施設という不毛なサイクルに投げ込んで期限がきれないように回し続けることについて呟いていた。この不毛なサイクルの不毛さについて、知らない読者もいるだろうから書いておきたい。本当に不毛な無間地獄である。

 まず、研修医が行くような急性期病院の多くはDPC病院=病名に対して入院期間に応じてお金が出る病院になっている。つまり、同じ肺炎でも最初の何日かは1日あたりの診療報酬が高いが、日数を経るごとに少しずつ1日あたりの診療報酬が減っていく。元気になった患者をいつまでも入院させて病院が入院費を儲けることはできないし、基礎疾患があってちょっとした肺炎でもなかなか退院できない超高齢者などは入院期間が長くなってくるといつ退院してくれるんだどんどん病院が損していくぞ、みたいな話になってくる。(ちなみに胃カメラとかは手技として別に病院にお金が入るから問題ない。また、一部の薬も薬代が別に病院に入ることになっている。例えばトロンボモジュリンという薬は別会計なので使うとそれなりに病院の利益になる。ちなみに生命予後を改善するエビデンスはない高い薬である。)だから落ち着いたら急性期病院から診療報酬の仕組みの違う療養病院へ転院しなくてはならない。

 ただ療養病院に空きが出るというのは大抵患者が亡くなることを意味するので、そんなにすぐには病床が空かない。すぐに転院できない時は間に地域包括ケア病棟というこれまた少し診療報酬の算定基準の違う病床が急性期病院にもいくらかあり、そこで転院や退院の調整をすることになる。また療養病院にも色々と縛りがあって、それなりに医療が必要な人でなくては入院することができない。例えば中心静脈カテーテルによる栄養などはその最たる例で、それが入っていれば療養病院も利益になるのか、あるいは入院患者の何%以上に入っていないといけないといった決まりがあるのだったか忘れたが、すぐに転院を快諾してくれる。一方で大した医療的処置が要らないのに喀痰吸引だけは夜中も必要な場合などでは施設だと無理な場合もある。喀痰吸引を夜中にしてくれる施設はほとんどないのだ。なぜなら介護士さんは喀痰吸引をできないからで、必然的に夜中にも看護師さんがいないといけなくなる。不思議なことに自宅で面倒をみる場合に家族は吸引しても良いことになっている。何の資格もない家族がよくて介護士がダメなのは謎である。

 ここで、喀痰吸引を夜中にもしないとすぐに肺炎になる高齢者について考えてみよう。方針としては中心静脈栄養か胃瘻だろう。他にもPTEGといった胃瘻の仲間みたいなもの(食道からアクセスするのでお腹ではなく首から栄養が入るもの。胃瘻は内視鏡で作ることが多いが、中には横行結腸がかぶるなどで造設困難なこともあり、そういった場合に開腹術をしてまで作ることはないだろうって時に選択肢にあがることがある)もあるにはあるが、施設が慣れていないなどの理由から行先がなくなってしまうことも多いので現実的には選択されない。ここで、ご家族の希望で胃瘻は嫌だし、中心静脈栄養もしてほしくはないなどとなると行き先は困難を極める。とりあえず、夜間の喀痰吸引など諦めてもらって施設に行ってそれなりのケアになるだろう。当然数週間、場合によっては数日で自分の唾液を誤嚥するので再度肺炎になる。肺炎になると再び急性病院に送られてくることがある。家族には誤嚥性肺炎が寿命の一形態であるという認識がない。実際に抗菌薬を投与すれば確かに解熱はするから感染症的な側面もある。我々は適当なタイミングで面倒をみてくれる施設に送り込むが結局根本的原因、アルツハイマー脳梗塞後遺症による嚥下機能障害には介入できないので、頑張ったところで絶対に肺炎を繰り返す。

 だからこれは寿命を見ているといえる。しかし急性期病院は純粋な医療の場なので、これは寿命ですよ、とは言えない。介入可能な問題がたとえ一時的であったとしても存在するなら抗菌薬を投与して、場合によっては輸液負荷やノルアドレナリンを使用して、嚥下機能障害の原因となりうる薬剤を除去して、口腔ケアを行い、ベッドの頭側を30°アップさせて、食形態の調整を行う。しかし絶対に肺炎を繰り返す。根本に介入できない以上、問題の先送り以上のことはできない。

 療養病院では中心静脈カテーテルの入った寝たきり高齢者が沢山並んでいる。せん妄になって大声をあげる元気のある高齢者はそこにはあまりいない。だから窓から溢れる日差しが静かな病棟を照らすのだ。ちなみに次はカテーテルが入っている限界高齢者の血流感染について書こう。異物が入っているので当然感染の原因となるし、血管に留置されているので感染したら当然菌血症になる。同じ患者でも急性期病院にいればカテーテル関連血流感染(CRBSI)になれば当然MRSAを起因菌に想定してVCMを使用する。そして当然解熱する。勿論これは抜ける見込みのない点滴なので、これまた絶対に再発するタイプの感染症である。VCMは抗MRSA薬というグループに属する抗菌薬で耐性菌を狙い撃つようなものだから厳密に使用しないといけない。確かにCRBSIではVCMが必要になることが多いし、これは正しいように思える。しかし限界高齢者のCRBSIは何度も繰り返すしこれも誤嚥性肺炎と同じで根本的な解決はできない。その感染の原因となるカテーテルを抜いて永遠に入れないことを決めたなら脱水と低栄養で死ぬからだ。それなら最初からそんなカテーテルをいれなければよかったのだ。ではなぜ入れたのかと考えると、カテーテルを入れないと療養病院には行けない。嚥下機能が廃絶していて夜間も喀痰吸引が必要なら療養病院に行かなくてはならないし、療養病院に行きたいならカテーテルをいれなくては行けない。

 本当にカテーテルも入れたくない、胃瘻もしたくない、でも喀痰に溺れて苦しそうにしているのは可哀想だ、となると家に帰るしかなくなる。しかし帰ることは基本的にない。なぜなら飯を食べない死ぬのを待つだけの寝たきり高齢者が家にいるのは家族にとって何となく不安だからだ。限界高齢者であっても家族としては何となく死なれるのは嫌だから治療は希望する。治療しないという選択肢を選び取ることに罪の意識を覚えるからだ。そしてその結果として適切な治療を繰り返しされて、少しずつ弱っていく。

 ちなみに安定したタイミングで療養病院に行くとすぐに亡くなる。そこでは適切な治療はされないことが多いからだ。急性期病院で適切な体液量や電解質の管理を厳密にされて、適切な抗菌薬使用により少しばかり運命より長生きした高齢者は療養病院でCRBSIの際に効かない抗菌薬を流されたりする。例えば、某療養病院AではPIPCは院内感染で問題となる緑膿菌をカバーしている上にお値段もとても安いから頻用される。勿論効かないことも多いがそんなことは患者家族にはわからない。それで効かなければより高域の抗菌薬を解熱剤がわりに利用する。それで解熱しなければ家族の希望に応じて急性期病院に転院搬送する。感染症の際に培養をとるのが正しい医療では必須でそれがないと何が悪さをしているのか分からないのだが、安く高齢者を寝かしておくことが第一である療養病院で正しい医療をしても仕方がないのでそんなことはしない。評価されない努力をしても仕方がないからだ。某療養病院BではVCMがない。つまりCRBSIになったら死ぬ。もともと比較的健康な人の急性膵炎やら心筋梗塞やら敗血症性ショックなどを見るはずの急性期病院の中に、不必要な正しい医療を受けながら耐性菌を生むだけの生きる培地として全ての自己決定権を奪われながら家族の死んだら何となく嫌だという感情のためだけに横たわる老人たちがいる。これが不毛でなくて何だ。どうせ療養病院にいったら不必要な医療なくすぐに不適切な医療によって亡くなるというのに、急性期病院で正しい医療をして、そもそも医療で改善できない状態の何一つ根本的な解決のできない人間に医療の立場から何をしてくれというのだ。

 

 

 消化器内科になってからは不毛な行為が減った。勿論総合診療科時代にも不毛でない人も沢山いたけれど。みんな良くなって帰っていく。けれども、消化器内科医は元気な人の消化器内科以外のプロブレムに介入しない。ポリファーマシー絡みだと、不必要なスタチンをやめたり(そもそも年齢的にエビデンスに欠けて適応にならないことも多いが場合によっては吹田スコアを利用して禁煙外来や高血圧のコントロールを食事指導をいれて良くすることでLDLがある程度高くても許容できる人も出てくる)、ベンゾジアゼピン睡眠薬を減量したり、不勉強な開業医がフロセミドだけでコントロールされている心不全(というかHFrEF)に長期予後改善薬を追加したり、介入できる原因として手術適応となる弁膜症があるのか虚血の関与は否定できているのか、ということは考えない。入院というものは今それなりに元気にしている多分このままだと元気でなくなる人に介入するチャンスなのだが、専ら手技が忙しいのでそれどころではない。病院総合診療医が医療的介入を行うことで長期予後の改善を望める人がいても吐血だけ止まったらPPIを盛られて帰るのは何だか切ない気持ちになる。その横のベッドで限界高齢者は正しい医療を受けながら天井を見つめている。

雑記

連日病院の当直室利用のシートに名前を書き込んでいる。学会前は仕方がないことで、しかしそもそも誰に強制されたわけでもない。単にお祭り的にお友達と遠出をして美味しいものを食べるのが好きという、比較的社交的な割に友達の少ない時期が長かった私の悲しい性質が学会参加をさせるのである。

誘われた研修医は堪ったものではないかもしれない、うち1人は何故か指導医氏の発表の準備まで手伝わされている。本気で不憫なのでせめて美味しいご飯と酒でも代わりに私があげなくてはいけない。

最近は特定の研修医への指導の不満をちょろちょろと垂れ流していたら、まあそれは君側の問題ではないよという話をされてそれなら良かったというべきなのか、彼の未来を憂いて憐憫の涙を流すべきなのか分からない気持ちになる。別に人間的に嫌いなわけではないし。できるならまともな医者になってほしいと祈っている。

勉強ができないわけではないはずの人間がどうして臨床でやっていけないのかを考える機会になった。私と組んでいた研修医でそんなに困ることが他になかったから、何が違うのかが本当に不思議でとにかく考え続けていた。国家試験には合格できる程度の医学知識もあり、コミュニケーション能力はまあ置いておいて(そこに問題があっても医者ができている人はいくらでもいる)……。おそらく所見の感度と特異度から鑑別疾患のそれらしさを見積もって、クリティカルさを考慮しながら、この場で除外する必要がある疾患なのか、そのために何の検査が必要なのか、その検査の侵襲は検査前確率と見逃した時のデメリットを考慮した時に本当に必要なのか、といった形で我々は診療するのだけれども、国家試験はそうではなかった。そこでは下肢浮腫のないDVTはないし、d-dimer陰性の大動脈解離は存在しない、胸部レントゲンで以前の肺炎像が見えているだけの誤嚥性肺炎を繰り返す喀痰吸引が常に必要な自分で足が痛いと言わない高齢者の蜂窩織炎は出てこない。心嚢液貯留があってIVCがそこそこ満ちているショックが心タンポナーデ以外の疾患であることは考えなくて良い。多くの所見はあえて提示されるからには感度と特異度がほとんど100%になっている、ように思う。私がといていた時もここで正常値をいれているのにこれが原因なら不適切問題になるはずだ、などと考えて解いていたことを覚えている。

僕は多分不確実性に向かい合いながら考えることが好きみたい。ハイポ系学生だった私は今よりもずっと論理的一貫性にうるさい人間だった。興味のない医学を勉強するならそれがお金のためでなくて何であろうか、お金のためであるならば国家試験を通る以上の勉強は無価値である。これは非常に正しい。学生時代の自分の正しさが眩しくて涙が出そう。結局その時に思っていたのは、知性が必要のない仕事を金のために長くしたくないということだった。ガイドラインや分類がすでに決まっていて、それに乗ってしまえばやることが決まっているなら、敢えて私がそんなくだらない仕事をやる必要はない。

というか、そんな考えだから友達が少なかったんだよな。自分だけがくだらない仕事をする必要性がないと思い込むなんて、他人を小馬鹿にしている。ある研修医がセンセはみんなバカだと思って生きてるね、と言っていた。やめろ、そんなことはない。

なんとなくハイポ系から普通の医者になりつつある。けれども最近診療能力が向上している気はあまりしないし、かといってここがプラトーとは思いたくない。上をみると確かにすごい人たちが沢山いて、でもじゃあそれを目標にするかっていうとそこまで趣味的に仕事ができるとも自分には思えない。進むべき道が今ひとつ見えない。手技をやればそこでは能力の向上の余地がまだ無限にあるし、心カテも内視鏡も自分でやる分には比較的好きだったけれども職人的な優秀さが自分に合うとも思えない。時間をかけて症例を沢山経験した人や練習した人がすごいみたいな世界はあまり好きになれない。かと言って研究的なこともやりたいわけではない。降ってきたものはやるけれど(なんか今度CDACの診断をどうするんだみたいなうちの病院を含む多施設共同臨床研究が始まるのだった気がするし、まあお手伝いくらいやってみたらアリなのかもなとか思うけれど)積極的にやるのかと言われるとどうなんだろ、仕事増やしたくないような気もする。

しかしオフを満喫できているかというとそうでもない。スキーが好きだが1人でいっても内面を覗いてばかりでうつ病になりそう。

来週はおねえさんとご飯。学会前にメンタルを回復したい。

酒をやめられそう

 今シーズンはスキーに3回行った。いずれも1人で行っているのだけれど、1人でのスキーというのは一種動的な禅じみたところがあって、リフトに乗っている時は本当に何も考えていない。意識の高い人の言うマインドフルネスっていうのはきっとああいう感覚なんだろうな、真っ白い空間にいて、真っ白い空っぽなメンタルにフワフワした思いが浮かんでは消えていくような。

 

 

 朝が最近そんなに辛くないのは、エアコンをつけっぱなしにしているのと、晩酌をやめたせいだと思っている。部屋が寒いのに布団の中は暖かいとか、外が暑いのに部屋はクーラーついてて涼しくて外の光が眩しいみたいな状況が昔から好きで、布団の暖かさを感じるためにパンイチで寝ることが多く秋から冬にかけて体調を崩しがちだったのだけれど、アラサーになって少し恥ずかしいかなと思ったりして、最近はエアコンで対応することにしている。おそらく寒い外を想像するから暖かい部屋の中が素敵に思えたり、うだるような暑さの中を歩く人を思うからクーラーの効いた部屋が好きなんだ。

 これに似た趣味で年末年始の帰省やUターンラッシュのすし詰めの新幹線に乗る時にグリーン車を使うことがある。指定席だと通路にまで人が溢れていてゆっくりできないし荷物も多くて大変、大変な人が近くにいながらのんびりゆったり地ビールでも飲みながらナッツをつまんでのんびり車窓を流れる景色を楽しむのが幸せなのだが、これは歪みだ。普段は一泊3千円のホテルに泊まって学会に行くのに、こういうところでお金を使ってしまう。あと後輩との飲み代。

 先日は医局の新年会で、飲み放題ではないとのことでワインをボトルでドカドカ注文していたら普通に酩酊し、貧乏根性から残飯を漁っていたら食べすぎて気持ち悪くなり帰宅してから多量に嘔吐して却って空腹になってしまって悔しかった。

 顔の良い今までモテてきた女の子が男性に対して態度がデカいのがとても気に障ってしまって、それも金も稼げない知性もない話も面白くないみたいなのだと多分返ってこない好意の裏返しから軽蔑してしまって、それが特にアラサーとかだとこれから落ちていく容姿を思って身勝手に悲しい気持ちになりながら幸せになってほしくてとてつもなく不幸になってほしいみたいな整理のつかないアンコントローラブルな感情に流されてしまい、思春期のモテない経験が人生に落とす暗い影からアラサーになって尚まだ逃れられていないと感じているという話をしたら、人妻の美人ゲカジョがマジで拗らせてるなとヒイていた。

 自分が他人を悪く言うのには強い抵抗があるので、他人が誰かの悪口を言っているのをみると微笑ましい気持ちになってしまう。別に小馬鹿にしているわけでも何でもなく、自分ができないことを人がしているのを見るのが好きなのかもしれない。なぜ抵抗があるのかはよくわからない。他人を嫌ってはならないみたいな無根拠で薄っぺらいくせに引っこ抜けない道徳心がメンタルの土壌に深く根を張っている。

 最近は特定の研修医しか指導しない。カルテチェックが時に2000文字近いフィードバックになり、それがその人への個人的な感情から厳しい指摘になっていないかなどと考えて不安な気持ちになる。でも冷静に考えて現病歴一行とかアセスメントに鑑別疾患をほとんど書かないとか入院とした根拠や抗菌薬選択の根拠も書かないみたいなのは、全てわかっていてやってる分には構わないけれど、そういうわけでもなさそうでダメだろうから公正明大な判断に基づいて差し戻しをしているはずだ。差し戻し時もこれを記載してくれとかなるべく具体的に指摘している。入院としてますが何故外来治療ではダメでしたか、細菌性肺炎の治療を開始していますが非定型をカバーしない根拠は何ですか、レジオネラ尿中抗原を出してますがこれは否定の根拠になるものですか、肺炎球菌抗原は陽性ならPCGで良いですか、良くないならどうしたら肺炎球菌性肺炎といえるんですか、培養でそれは生えやすい菌ですか、呼吸器症状ほとんどないけど肺炎で大丈夫ですか、足腫れてるって施設の人言ってませんでしたか、他の熱源も考慮して診察して一通りみてください(と言った人は何もないといったのに普通に翌日に蜂窩織炎だったりした)、本当に誤嚥性肺炎ですか、嘔吐後なら誤嚥性肺臓炎ではないですか胃液は無菌ではないですか細菌感染の関与はありますか化学性肺炎ではないですかグラム染色はどうでしたか。根拠のない診療スタイルはいつか人を殺すから、何となくCTまではとってみましたとか、何となく入院にしましたとか、何となく採血しましたとかはやめてほしい。スコアリングとかをそのまま使うのも考えものだけれども、それは先の話でまずはガイドライン上はこうなっているとか、救急外来セッティングならこれとこれは除外したいし、こういう基礎疾患とかリスクがあるから除外するなら造影でCT撮る他ないなと思いましたとか、そういうディスカッションを求めているのになかなか難しい。そういう話し合いの中ですり合わせを行って除外したい疾患の可能性を0%にするのは数学的に無理だけれどここまでしておけば検査前確率ひくいからこのスクリーニングで除外でいいよねみたいな一般的な感覚を掴んで行って欲しいのに、話し合いにならないと永遠にそのレベルに至らないし、話し合うための基礎の勉強は外来で教えるものではないからカルテ差し戻しで後で教えているけれど、差し戻したカルテは却ってこない。負荷が大きくならないように時には横で僕が患者を捌いて患者数もコントロールしているんだけど。別に自分の人生だから好きにしたら良いなと思いつつ、少し虚無感を覚えるし何かまずいことをしたらと思うと不安。そういうレベルではないのかもなと思って、きちんと基礎から教えたこともあり、それもきちんと文面に残しているのに、その後それがカルテ記載に反映されたことがない。そろそろ諦めて良いですか。

 自分の精神性を見つめ直すことが最近多い。科が変わって比較的余裕ができたかもしれないし、好みの女の子たち全てにふられて心の中心に関心のあるものが何もなくなってしまったからかもしれない。きれいなおねえさんとの関係性の中での私にスポットライトを当てて自分の歪みについて考えることが多かったのだけれども、久しぶりに自分の身の回りに会える好みのおねえさんがいないという状況に陥ってしまって今まで歩いてきた地面を突然取り除かれたようなフワフワとした感覚に襲われる。地面探しのために暇があると自分の歪み全般について思いを巡らせている。

 他人の悪口を言う人は他人に興味がある人だ、僕は恐らく他人にあまり興味がない。ブログに長文を書くのも自分の心情の動きについてばかりで、表面上は誰かと会った話をしていても、実際には自分の話を書いている。誰かが今後期研修でどこの科を回っていて大変とか、こういう思いをした、みたいな話も結構すぐに忘れてしまうような気がする、いや、これは酒を飲んでいる時に聞くことが多いからかな。

 他人への興味でふと思い出した。先日Twitterで子育てをしているどこぞの大学教員か誰かが、他人の子の話というのは本質的にどうでも良いので(自分の家の子については非常に強い関心を誰もが持っている一方で)それを自分がする時には相手の子育て話も聞くことがマナーだと思っている、そしてそれは女性同士だと比較的共有されているように思われるが、所謂イクメンはこの配慮が共有できていないから相手が自分の子供の話をした後にこちらの子育ての大変さについて訴える機会が与えられないことが多いというような一連のツイートを見かけてそんなこと考えている人もいるのかと思った。私には子供がいないのでよく分からない。

 1月半ばに風邪をひいて2日ほど寝込んでいたら、酒を飲まなくても寝られる体になっていた。2週間晩酌の習慣をやめたら2キロ痩せた。

 

 

 何かこう人生が新たな局面にいったような感覚がある、興味の関心が何にも向かっていない。掘り下げる何の興味もなく、とりとめのないことを考えながらせっかくやめられた酒を飲むのも勿体ないし、布団にくるまって朝を待っている。これが健全というものなんだろうか。先月にユニクロで寝巻きを買ったので、布団にきちんと寝巻きをきて入ることになった。少なくともここは健全になったポイントだ。できないことよりもできることに目を向けよう。

こじらせの話

「あなたって本当に女性関係のこじらせと田舎暮らしと学歴のコンプレックスの話ばかりよね」

というようなことをTinderで会ったサピオセクシャルの女性に言われた、ような気がするのだが通話だったので本当かどうかは分からない。夢かもしれない。

今日風邪をひいたみたい。左咽頭痛と前頸部リンパ節腫脹と圧痛、扁桃腺腫大と白苔はなし、発熱は不明。modified centor criteriaだけで抗菌薬を処方しないという話があった。満点でも半分はβ溶連菌感染ではないし、伝染性単核球症にアモキシシリンを処方してしまうリスクがあり、リウマチ熱予防や扁桃周囲膿瘍予防のためのNNTが数千とかで、早く解熱する以外のメリットが実はあんまりないとか。迅速検査陰性でも他のG群などの感染の可能性が否定できないのに陰性の場合に抗菌薬使用を必ずしも投与しないのはそんな背景なんだろう。とにかくパシフィコ横浜の糖尿病学会地方会に参加してきたからそこでうつされたのかもしれない。明日の仕事はインフルエンザなら休めるけれど、インフルエンザでなければ休みにくい。いや、多分風邪気味って言えば休めるんだ。けれども何となく抵抗がある。うつすうつさないの話がなければ全然仕事自体は可能なレベルで咽頭痛がちょっとあるだけだからなとか考えてしまう。

ところでミシェル・ウェルベックという小説家の陰気な文章を読んだのは研修医の頃だった。「おそらく僕はセクシャリティに重きを置きすぎたのだろう。それは否めない。しかし、この世界で僕が居心地がよいと感じた場所は、僕が小さく身をすくめていられる、ひとりの女性の腕の中、ヴァギナの底だけだった。そしてこの歳になると、考えを改める理由も見当たらない。―『ある島の可能性』」みたいなのはまさに私の書いた文章ですかみたいな感じがしてしまう。そう、わたしもセクシャリティについてばかり考えている。

モテないこと、綺麗なおねえさんと仲良しできないことによる非モテのこじらせをどうにかしたい。わたしだって本当はもっと高尚なことを考えたいのだ。

イチオシのおねえさんには高校生頃からいつも嫌われてきたような気がする。勿論好みでないオスからの性的な目線は誰だって嫌なので仕方がない。ショウジョウバエだと少し勝手が違うようでふられてから何度もアタックしないとならないらしいが、当然ながらヒトはショウショウバエではない。(http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/public-relations/researchinfo/upload_images/20200106_sci1.pdf

何にしても救われないのは大抵解釈の領域においてなんだと思う。エマワトソンと交際できないことを嘆く人間はエマワトソンがすごい好みだと思う男性に比べて世の中ほとんどいない。エマワトソンだと理解可能なのに近場の女性だと途端にそう思えなくなるという歪みがよくない。OLはそもそも脈なしだっただろうし、ポリクリ生の脈なしママもポリクリ生の脈なし尾瀬いったマンもみんなはじめから手の届かない存在だったのだ。働けるレベルの体調でも休んで罪の意識を感じるとか感じないとか、それも解釈の問題に過ぎない。

というかそもそも最初から脈のない女の子が好きみたいな節があるのか、あるいは脈があるようになってから初めて本気でこの人と交際ってどうなのみたいな悩みが出始めるというだけの気もしてきたな。OLともし交際しても不倫されるだろうし、ロリネキと交際しても喫煙者だし話あわないなとかでうまくいかなかった可能性が高い。尾瀬に行った女の子は遠距離になるからもし脈があっても無理だ。鉄板焼きのおねえさんも仲良くなったとしてもスキーとか行ってくれなくて休日を一緒に楽しめないかもしれない。交際できない相手についてリアルな短所を考えなくて良いだけという気もする。

おそらくこのまま普通に外病院の脈ありロリメガネ研修医おねえさんと仲良しして交際して結婚というルートが一番現実的なんだけどいざそういうルートが見え始めると途端に背後に控える重度の毒親の存在とかが気になってしまう。先日わたしの価値観では理解しえないことが起こった。もともと私と電話をする時間は親のいない時間に限られるとか彼女の自立を妨げるように毒親が一生懸命に過干渉しているなと思っていたのだが、先日ほろ酔いで彼女と電話してお話していたら部屋に突然入ってきた母親にiPadを取り上げられていたのでわたしライン通話を切ってしまった、アラサーの娘のラインを管理するとか頭がおかしいし、それに甘んじている彼女も変。マジでひいてしまった。本当にムリ。後日怒ってたら申し訳ないと謝られたのだが怒るとかではなくて普通に倫理観が異なりすぎていて心配になるし第一謝るとかではない、家族との関係性を見直すべきだし、60近い人間が今更変わるとも思えないのだから絶縁くらいの勢いで距離をおかないと(毒親は干渉したいので絶縁だ! と叫んでも絶対に絶縁にはならない)困る。わたしが女の子に送ったライン(「ママァーうんひっもえううう」とか「Mなので射精管理されるの好きです」とか)を彼女の母親がみる権利はないし内容的にもプライバシーに著しく関わってくるし、民事で訴えられたら負けると思うんだけど、なんて浅はかなんだろう。敢えてそんな不幸のリスクの高い関係性に自分を投げこまなくて良い。何で私が射精管理されたいM豚だってことを見知らぬ還暦近い女性に知られなくてはいけないのだ。結局、危なくなさそうな人だから週に1度くらい電話して良いと言われたよ、と話していたけれど好きな時に電話して好きな時に会う権利があるのをどうしてわからないんだろう。この年齢になるとどうせ老いていく容姿で上を求めるよりも精神的な成熟度とか相手の家庭環境とか稼ぐ能力があるのかとかで相手をみたくなってしまう。結婚は考えられなくなったから相手もアラサーで無駄な時間使わせるのも悪いし距離をおいた方が良いのかもしれない。でもまあ彼女自身をみたら全然良いのだよなとか複雑。変わっていただくしかない。

昼頃から寒気がするので夕方にサウナに15分入ったら寒気がなくなった。治ったんだろうか。全ては解釈の問題だからな。おそらく治ったんだろう。痛みも侵害受容器の細胞たちの脱分極にすぎない。ちょっとばかしナトリウムが細胞内にふえて、ちょっとばかり電位があがって、それでつらいなんてまさかそんなことがあるはずないのだ。そう、だからもっと高尚なことを考えようよ、ねえ。

 

追加

朝病院にいったら熱発していたのでお休みをもらった。こじらせすぎた思いがぐるぐる体内をまわって摩擦熱で体を温めているのだ。

 

パパ活、あるいはいけてないことについて

約束の時間は7時らしい、仕事が何時に終わるか分からないので店の予約はしていなかった。コンビニで一冊のベストバウトオブはじめの一歩を三周くらい読んで1時間ほど時間を潰した。どうやら今日はパパ活らしい。なぜパパ活をすることになったのかはよく覚えていない。脈のない女の子に金を落とすことがパパ活なら定義的にはパパ活で間違っていない。本来的には生産性を求めない貴族の遊びみたいな領域で自分には向いていないなと夏くらいに理解したのに何故かまた脈のない女の子とご飯に行くことになった。

鉄板焼きの美味しい店があるというから店はそこに決めた。パッと食べログで見た感じだと古い洋食屋さんのような見た目だったこともあって、あと脈ないしデートではないかもなとか思って雑なパーカーで行ったのだが、四台分しかない駐車場には既にレクサスが二台停まっている。幸い財布には学会の後払いの交通費六万円が入っているので破産はしなさそう。車なので酒も飲めないし。女の子はすでについて車で待機していた。はじめの一歩に集中して5分前行動をし損ねたのだ。

美味しいものは食べたいし食べてもらいたいけど何か期待するのも違う時、純粋に飯を奢ってお話をする場合に飯代以外にお金を渡さないとしたらどの程度のものを奢るべきなんだろう。

結局、精神的な余裕のない私は脈のない女の子に高すぎるご飯を奢ってサヨウナラをするのがあまりに惨めな気持ちになることが容易に想像できたので(私はいけてないから女の子とご飯を食べようと思ったらせめて美味しいものを奢ってあげなくてはならない、と考えるのは惨めな気持ちになる)真ん中くらいのコースにしてしまった。それもまた後ろ向きに振り返ると何とも情けない話でどの選択肢を選んでも救いはなかったのだが、せめて女の子には美味しいものを食べてもらうべきであった。

ペアーズで私モテモテなんです400人からイイネが来た、でも彼らは私の何を良いと思っているんですか。もう嫌になるね、と話していたから、私はなにも考えずにTinderを右スワイプしているよとお伝えした。僕がぽろっと稼ぎのない女は婚活という点で負債にすぎないという話をしたら顔を曇らせたように見えたのは多分見間違いではなかったと思う。

大人数だと話せるけどパパ活枠です、となると何を話せば良いのか分からなくてメンタルの童貞膜が顕になる。彼女は幕張メッセといって喜んでいた。たとえつまらない話でも最高に面白い顔をしながら聴くのは美徳の一つでおねえさんはそれがうまかった。

普通に楽しくて美味しかったのだが会の終わりに悲しい気持ちになった。私は女の子を呼び出して(ひょっとしたら断りにくかったかもしれない)、飯を奢り、世界一楽しい顔をしなくてはいけない雰囲気と圧力をかけていたのかもしれない。

これは完全に私見なのだが世の中には3種類の男がいる。キャバクラの好きな男と風俗の好きな男とどちらも楽しめない男だ。キャバクラの好きな男は自分に自信がある。落とせるかもと思うから金を使う、疑似恋愛に燃えることのできる人間は自分が誰かから愛される自信のある者だけである。風俗の好きな男は自信がない。人間的に魅力のないことは分かっているから、せめて肉体の接触だけでもお金で買おうとする。どちらも楽しめない男はもっとも自信がない。例え金をもらったとしても自分の体に触れることが女性は苦痛だろうと考えている。

僕が普段根拠のない自信と呼んでいるものはおそらく自身のきもみへの鈍感さとほとんど同義なんだなとふと気がついた。それをみにつけた人々が楽しそうなのは自信に満ちているからではきっとない。わたしは愛されるに足る人間だと思うことは単に楽しくなるための必要条件なんだ。

女の子の不興を別件で買っている。クソ面白くもないことをして。普通にクソ面白くもないことになった。オチはない。

なんでパパ活に至ったのか思い出した。年末にあった時に色々な女に目が行き過ぎ、せめて1人に絞らないと女性側から選択肢にも挙がらないのは当然なのでは言われたのと、なんだか最近色々な人とうまくいかない感じだからだった。でもそれだとこの会は僕の側からはパパ活じゃないみたいになってしまう。全てがいけてない。当直明けで眠すぎる。この記事を書くのもあんまり適切でない気もするし、回らない頭の中のコールタールみたいなものを吐き出さないと崩れゆく自己肯定感の中でゲロを吐きそう。