ぶたびより

苦しみは罰でも贖罪でもないんですよ

知性と細部、月と太陽

  電子カルテに表示された名前の一覧を眺めていた。若い人々の名前、男性には陽の字、女性には月の字が多い印象を受ける。これが時代によるものなのか、地域柄なのかは分からない。ふと、平塚らいてうの「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。/今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」で始まる有名な文章を思い出した。この月と太陽に関する話が具体的に神話の話を指して言っているわけではないとは思うのだが、日本神話においてアマテラスは女性で、ツクヨミは男性だったはずだ。そう思って調べていたら、どうもツクヨミの性別といのはもともと書かれておらず、男性と認識されるようになったのは比較的最近(いつなのか知らないけど)ようであった。ウィキペディア情報なので本当かどうかは知らない。月や太陽を象徴する神をもつ宗教は色々あると思うのだけれど、それぞれの性別は一体どうなっているのだろう。以下はウィキペディア情報なので信頼できるかどうかは微妙なのだけれど、インカの太陽神はインティといって女性で月の女神ママ・キジャが妻(あるいは妹)とされているそう。アイヌでは太陽はトカプチュプカムイというらしく性別は諸説あるそう。エジプトの太陽神ラーは男性。ギリシアアポロンヘリオスも男性。メソポタミアの太陽神シャマシュは女神だったが途中で男性神に性転換したらしい。タイにでも行ったのだろうか。北欧神話ではソールという女性の太陽神、ケルト神話では太陽神はベレヌスで男性神のようだ。中国では羲和という女性の太陽神がいる。地理的な距離や人種によって決定されているのかというとそうでもない印象だ。また、性別を決めないという選択肢はあまりないようだった。人と同じように神話の登場人物に性別があると思うのはなんだか不自然な感じがする。

 以前、部活の先輩が勧めていたことからボルヘスの小説を読んだことがあった。ホルヘ・ルイス・ボルヘスラテンアメリカの人で、存在しない小説の評論文、凡ゆる文字の組み合わせがランダムに配置された本がどこまでも置かれる図書館(理論上は世界の真理の書かれた本がどこかにあって良いはずだ)など。その中に「記憶の人、フネス」という短編小説があった。もう何年も前に読んだものなので詳細は覚えていないのだけれど、たしか完全記憶能力者のためにあまりに物事を細部まで区別できてしまい、物事の名前を覚えることが困難、といったような筋書きだったような気がする。

 『天才スピヴェット』というかわいいショタが登場する映像の綺麗なフランス人監督が撮影した映画がある。家族に内緒で発明品をとどけに行く悲しく可愛い天才少年のロードムービーだが、その母親についての説明で「彼女は人生のほとんどを昆虫を種と属に分類することに費やしている」(大意)といったセリフがあった。

 細部を無視することで(あるいは無視できる共通の細部を発見することで)認識できる情報量を増加させることが大きな知性(小さな知性が細部の解釈だとすると)なのではと最近考えている。無数に存在する物事をそのままに受け入れていては情報量がパンクしてしまう。言語の習得過程もまさにそうだろう。(あの四本脚のもの(チベタンマスティフ)はワンワンだがこの4本脚のものはネコであって、このさっきと違う4本脚の個体(チワワ)はなんだか全然違うのにワンワンと呼ぶようだ、この2つに共通する特徴はワンワンなくことであってそれ以外の細部はワンワンの領域において無視しなくてはならない、と少年は学ぶ。)

 感覚器によって気になる細部は異なるはずだ。盲目の人だけで構成された社会では脚の数によって生物を分類しようとは思わないかもしれない。鳴き声によって分類される方が理にかなっているだろう。また、SF映画などで宇宙人と接触する際に異文化交流の話が出てくるが、その生物の感覚器によって物事の分類の仕方がまったくことなるだろうし、ミジンコと人間が区別できないとか、そういったことは十分に起こりうるのではないかと思う。大抵の映画において、比較的人類に近い思想を持っていて、いわゆる我々の思う論理的思考とやらが通じることに何となく納得がいかない。まったく異なる感覚器によって違う分類によって物事を認識する文化から、共通の思考回路が生まれるとはどうにも思えない。もちろん文化圏が違っても違う星であろうとも1+1は2だけれど、そもそも数学という概念を持ち合わせていないにも関わらず、まったく異質な知性によって恒星間航行が可能になっている文明が存在する可能性だってありえるんじゃないか。

 中学校の時に好きな女の子がいたのだが、何で好きだったのか思いだせない。隣の席だったことと容姿が好みだったことと、耳の産毛の光るのにでも心奪われたのかもしれない。思春期の少年はとにかくチョロい。落ちた消しゴムを取ってもらっただけで気があるのではなどと考えだして、モンモンとして漠然とした好意とネチネチした性欲に変化させる。たしか中学校時代に好きな女の子が3人いて、1人には確実にしっかりとフラれており、もう1人ははっきりせず、もう1人は特になにもなかった。3人目の子にはホワイトデーにお菓子を渡そうと思ったらインフルエンザになってしまったので実家に届けにいったところ母親に当然ながら遭遇、ほほえましい顔でみられて死んでしまいたい気持ちになったことだけを覚えている。懐かしい。1人目のおねえさんとは大学時代に1回夏休みにドライブデートをして当時同棲していた彼女にブチギレされて生命の危機を覚えた。2人目のおねえさんは成人式で母音を数文字発した。

 先日、近所の居酒屋で酩酊しながらおちんちん8メートルほしい、といった類の話をしていたところ、2人目のおねえさんに遭遇した。連絡先を交換することになったので、最近週に1回ほど飯を食べに行っている。近所の定食屋と居酒屋など。過去にDVされていた話などを聞いて何となく切ない気持ちになっていた。

 義憤というものが嫌いだ。あることに怒りを感じてよいのは、いや、少なくとも表現して良いのは、その不利益を被った本人だけだ、という頭がある。自分勝手に他人の怒りを代弁することは、その相手の感情を踏みにじっている気がしてしまう。一方、SNSで現れる「こういうことが不愉快です」と話す人々の中に、必ずしも自分に危害が及ぶわけでもないのに、他人の心情を勝手に慮ってお気持ち至上主義者としてよれよれの正義の御旗を血走った目で振り回す者たちがいる。

 自己の範囲について考えると、おそらく彼らにとっての自己―ここでは傷つけられるとつらい気持ちになる範囲内を自己と定義している―は僕に比べてずっと広いのだと思う。自分に無関係なものには不干渉でなくてはならない。これはきっとある程度真実なんだけれど、自己の範囲が僕より広いタイプの人間は干渉しなくては気が済まない範囲もまた必然的に広くなってしまう。

 例の居酒屋で遭遇したおねえさんと一昨日車で話していた。「結局誰も自分のことなんてマジマジ見ていないから、職場に行くときは最低限の眉毛書いてファンデーションして、くらいだ」先日『妻のトリセツ』なる本を産婦人科の女医さんに渡されたので読んだ(電子カルテがダウンしてしまって外来が中止になり暇だったのだ)。少女が大人になると、少しずつ肥大した自意識が小さくなっていく話が書いてあって、女子高生は前髪がきまらないことで学校に行かないが大人は会社に行く、とあり、そうかおねえさんは大人なのだな、と思いながら豪雨の中灯りひとつとしてない真っ暗な夜道を運転した。

 他人に好意も持つということは、自分の範囲を広げようとする行為のように思える。交際相手によって喫煙や飲酒やコーヒーを自分で挽いて入れたり映画館に行ったり、博物館にいったり、休日にキャッチボールをしたりする習慣が生まれる。

 居酒屋で出会ったおねえさんは昔はとても明るかった気がするのだが、久しぶりにあったら少なからぬ影を感じた。いつも夜にあっているからかもしれないし、僕と同じでアラサーになったからかもしれない。雨が激しくフロントガラスを打ち付ける。交友歴の話を聞いていた。半袖を着ないなと思っていたら服を脱いだら刺青入り少年院帰りだとか、飲み会に行くとブチギレ首締めマンとか、まあよくぞ集めたクズ男のデパート! みたいな話をしていた。僕はねちっこい人間なので昔のツイッターを見たりするのだが別れましたの言葉と首締められ跡の写真などが載っておりなんとなく悲しい気持ちになる。家に送り返してノンアルで健全に解散した。好みの女性が虐げられていた話は普通に悲しいし、そんな人でもおねえさんと交際していたのにわたしは一体何なんだろう。夜遅くまで働いて、勉強して、全身管理をして、長期予後改善のために患者家族にお話をして、別に報われるためにやってるわけでもないんだけれど、軽蔑すべき人間がたのしくステキなおねえさんとの時間をすごしていて、僕が酒をのんで汚い反吐をトイレに撒き散らしているのは何なんだろう。

 悲しい細部を敢えて見る必要はないしし、そもそも知性とは細部を無視することで可能になる営みでもある。たまには昼にご飯に行って、明るい夏空の下でビールを飲むおねえさんのキラキラした笑顔をみたい。

信仰について

  今日は新幹線で東京へ向かっている。12連勤だったので、たまにはお休みに遊んだってバチは当たらないはずだ。お盆という習慣があまりないからよく分からないのだが、道が混まなくなり、救急外来に来る人の住所に地元民の割合が増えて、新幹線の中にも子供づれが少ないからお盆はきっと終わったのだろう。調べてみたらお盆が分からないのも道理で、この日取りは別に国民の祝日でも何でもなくて、単に宗教的意味合いから休みにしている会社が多いだけのようだ。病院にはそんなもの関係ない。お盆自体はもともと旧暦7/15であったようだが、グレゴリオ暦にして日付をそのまま残すことにすると農業の忙しい時期と重なってしまうために8月15日にずらしたなどとウィギペディアには記載があり、暦が西欧の国々に倣った影響や仕事が忙しいからといった理由で先祖が現世に帰って来るとされる日付がずらされてしまうのはなんだか御都合主義的で面白い。

 僕は自分ではおねえさんとのデート前に神社に手を合わせに行くくらいだからどちらかというと信心深い方だと思っていたのだけれど、たまに患者の退院調整の際に家族に大安が良いからなどと持ち出されることがあって驚いてしまう。冠婚葬祭以外で気にしたことがなかった。僕らは全然無宗教の徒ではないみたいだ。無宗教を謳う人が大晦日に初詣に行くことが理解できない外国人の話はよく耳にする。所謂宗教というのが、オウムとかISみたいなものだったりあるいはケンタッキー州にある創造博物館みたいなものと結び付けられて考えがちなだけで、なんとなくお祭りに行ってわいわい騒がしくて楽しい気持ちなのもきっと宗教的高揚に他ならない。

 少し前に地元のお祭りがあった。普段人通りのまるでない田舎の片側一車線のメインストリートに屋台が立ち並びテキ屋のガラの悪いあんちゃんたちが唐揚げを揚げたりしていた。巨大な男根を象徴する女性しか担ぐことのできない神輿があるが、これは昭和に入ってからの風習のようだ。400年前頃からある祭りのようで、養蚕の盛んな地だったからこの時期くらいまで農家の人々がとても忙しくてやっとこの祭りでハメを外せるといった意味があったらしい。日常の鬱憤がピークを迎えたところに祭りを置くことでお上への不満が減るだとか、そんな構造的利点からできたお祭りなのかしら。僕も一度指導医に頼まれて神輿を担ぐハメになったことがある。結局、ものすごい熱気で暑いところが苦手な僕はすぐに体調が悪くなってしまってリタイアした。

 最近初恋の人と交際して浮かれていたと思ったら一瞬でフラれてから抑うつ気分の訴えの強い研修医が僕とチームで動いているのだが、無趣味なことが良くないと思ったようで、自分を救うためにロッキンジャパンなる会に友人と参加した話をしていた。話を聞く限り現代の祭りで、信仰的なものが薄れて尚我々は祭りだけは欲しているんだなという印象を受けた。フェスと呼ばれるタイプのイベントの隆盛に関する考察で以下の様な説を見つけた。曰く、ネットの普及に伴ってどんなニッチな領域であっても自分の物理的な周囲の人間と共有できなくても没頭できる環境ができてしまって、その先にそれでもやっぱり誰かと共通の体験をしたい欲求が頭を擡げてきて、共通体験というものの価値が高まった時にフェスが誕生する、と。

 でも神様を失った僕たちが尚信仰するべき何者かを見つけなくては生きてはいかれなくて、不満も何もかもを投げつける環境を欲して人造のネオ神様を作ろうと踠いているのだと思うとなんだか可愛くて面白いように感じる。

 今日は某病院の先生と東京にデートに行く予定が入っている。その女医さんと仲良くなった時に僕の周りの女性関係はまったくクリアだったので飯に行く約束をしたのだが、後日中学校の頃に片思いしていた女の子と飲み屋で出会ってしまって相変わらずたぬき顔で弱そうな顔でぐう好みであることを発見した。(6年交際していた前の彼女もたぬきによく似ていた。)最近週に1回くらいご飯に行っていて、何なら昨日もご飯に行ったし明日もご飯に行く。この状態でなかなか会えない都会の私大卒ブルジョワ女医さんと長期予後が良いとも思われない。そして今日はICU夜勤明けで、さらに今急変対応中とのことで、ということは多分死ぬほど疲れていて、確実に予定より遅れて会うことになるために申し訳なさそうに待ち合わせ場所に現れるのだろうと考えると胃が痛くなってくる。僕はどこで何を間違えたんだ。誠実でありたいのに誠実になれない時に罰を求めたりしがちだけれど、そんな相手に何一つ利益のないことを求めるのは歪んだタイプの自慰行為だ。

 僕の普段信仰している自然科学は検証に耐えるがこういう時に僕を救ってはくれないし、僕はひねくれた人間なのでネオ神様も信仰していない。自分の心は自分で救わなくてはならない。研修医氏は自分を救いにロックフェスに行った。僕はどこへ行けば良いのだ。

犠牲と分かち合いの話

 先日ご飯に行ったおねえさんと次回もご飯に行く約束をしたまでは良かったのだけれど、1人で過ごさない夜がたまにあると、砂漠でコップ一杯の水をもらったおっさんみたいになって、もう一杯を充血した目でハアハアしながら求めてしまう。相手にとってもその一杯はきっと貴重な水で、見殺しにされなかっただけでも大層ありがたいことだというのに……。 

ホームシアターを作ったはいいものの他人の時間を2時間も奪うことが恐ろしくて、結局一人で夜にマンションの苦情にならない程度の音量で静かにロッキングチェアに腰掛けてエアコンの効いた部屋でウイスキーグラスを傾けながら映画を観ることが多い。注意欠陥傾向が強いにもかかわらず、他人の迷惑に敏感なものだから、後方視的に私の飛び跳ねる意識が水切りをして水面を跳ねた石ころみたいに意図せず誰かを傷つけたりしてはいないかを考えて訳もなく不安な気持ちに襲われたりする。そんなわけで、折角のホームシアターも専ら1人で楽しむ用途になってしまった。

 かつて東北の地方都市に住んでいた大学生の頃、僕の家の裏にはスーパーがあって、さらに徒歩1分圏内にキャッチボールや冬には酒を暖房にしながらかまくら作りができる公園とコーヒー豆の焙煎屋さんもあって、とても住み良い地であった。近くにそこそこ定食屋もあったので外食もそれなりにしていたのだけれど、一人暮らしをしている時と誰かと同棲している時とでは食事が違うもので、同棲期には家でご飯を食べることが多かった。勿論これは単なる自炊における損益分岐点が1.8人暮らしあたりにある所為かもしれない、つまり1人くらしにおける自炊は一回分を作る手間や金銭が割に合わないのである。しかし、それだけで説明するのもなんだか寂しい気がして、誰かと食べるご飯の方が美味しいし、みたいな話を導入したくなってしまう。例えば、一人で食べる夜マックのダブルチーズバーガーパティ2倍はたしかに美味しいのだけれど、1分強で食べ終わるし、食べながらそれでもツイッターを読み、美味しいを感じながらもどうにもイマココに集中する気がまるで起こらない。舌と飯、あるいは現実、末梢神経と脳の間にそれぞれ薄い膜を張るように積極的に働いている。酒に関しては1人のみの時はまさに現実との膜そのものとして機能させるために飲んでいる。一人きりの現実に堪えることができず、幽体離脱的にイマココから離れたくて「私はここにいる」といったトートロジーを壊すために脳細胞をアルコールで燃やす。

 映画も同じで一人で楽しい映画を観ているとたまらない気持ちになるから、家で観るのは暗い映画が多くなってしまう。夕飯は医局のカップ麺、家に帰って今日はホロコーストを生き抜いたピアニストの暗い映画を観ながら安いハイボール用のウイスキーを炭酸水を切らしていたのでロックで大して美味しくもないのにそのまま飲んでいた。でも1人の生活の正しい送り方はきっとこれに違いないのだと思う。誰かの迷惑にならないようにとか傷つけていないかとか、正しい生き方から外れることへの恐れが大きくて、たまに正しくない生き方を堂々としている人を見かけると薄暗い羨望を覚えてしまう。

 最近は楽しいことが多い。ささやかだけど果てしなく幸せな体験を長期予後が不明ながらも、せめてその時だけは現実に戻って100%のイマココを生きて永遠に記憶に結晶させておかなくてはならない。

 丁寧に生きていきたい。誰かの水を奪ってはならないし欲しがってもならない。奪う人を憎んでも羨んでもいけない。僕は無関係に僕に降ってきた幸せだけを得ていかなくてはならない。だから先日はすてきなおねえさんとご飯に行く前に近所の神社で珍しく50円玉を賽銭箱に投げ入れてまじめに手を合わせた。他人を不幸にせずに私も幸せになれたら良いなと思う。飲み会の帰りにおねえさんと僕のお家で雑な酒を飲みながら話してから夜更けに家に送り届けた(しかし振り返ってみると明らかに僕の方が意識レベルが低かったのでこの表現は適切でないかもしれない)。

 翌朝の通勤時におねえさんが徒歩で通勤しているのを見かけた。僕のせいで寝坊をしてしまったのに違いないのである。近所の神社のご利益があったのかは判断がつかない。

限界高齢者の話

 もう死ぬんでいいよ

 と話す超高齢者に何度僕はCVC(クソ太い点滴)を挿入してきたのだろうとふと考えると暗い気持ちになってくる。話せないレベルの人でも暴れて抗おうとするが、必要な処置ですからねと押さえつけてしばりつけながらいれたりする。別に必要じゃないよなあと思いながら。せん妄老人のうめき声がそこここに響く病棟に入って回診をする。清潔感ある新しい病院であっても朝の処置時間には糞尿の臭いが立ち込める。枯れ枝のような生気のまるでない高齢者や永遠に自分の唾液に溺れている高齢者がうつろな目で天井をみつめたり寝たりしている。もう少し元気がある過活動型せん妄の患者さんはスタッフステーションで車椅子に縛り付けられて怒号をあげたり、拘束衣を切ろうともがいている。また、おとなしい時は塗り絵をしたりしている。たまに些細な所作から元の人格が透けて見えたりするとなんだか切ない気持ちになる。絶え間なくアラームが鳴るが、アラームの閾値が不適切に低いので誰も危ない状況だとは考えずにアラームを急いで見に行くことはしない。もう年なので侵襲的な処置は別にやらなくてもと言う家族もいれば年金が高いのか医療行為自体とその先に対するイメージが希薄なのか何なのか分からないが全部やってくださいと話す家族もいる。全部ってこういうことだよ、という話をするが遠く離れた世界のことのように聞こえるのか理解してもらえないこともしばしばある。おそらく境界域くらいの知的障害者の数は僕らが普段感じているよりずっと多い。我々って年を経るごとに職種や階層が別れていき、自分と均質な人間と多く付き合うようになるのだが、医療職に関しては働き始めた瞬間に誰とでも付き合うことになる。こういう知性の階層のギャップに気がつかないタイプの人間は一定数いて、他者の知性に対して過剰な期待をしているが、思っているよりずっと周りの人間は論理的な思考や抽象的な思想というものに対して鈍感だ。とはいえ、田舎だからか大抵の患者さん家族からは病状のすべてを理解するよりも医療者の思うベストに沿うのがベストだと思います、というような思想を感じる。この手の病状説明のことをinformed consentと呼んでICのセッティングしておいて、などと話すがこれは原義から遠く離れた父権主義的病状説明と意思決定を指しているのが実情だろう。

 先日スコセッシの映画の『沈黙』を観た。ハリウッドなのにつっこみどころの少ない良くできた日本の情景描写がきれいだった。茅葺き屋根にしたたる雨水が良い。長崎、キリシタン弾圧の中、布教にきたイエズス会の神父の話だ。弾圧される人々をみながらどうしてこんなにも苦しまなければならないのかを思い悩み、自分が非キリスト教徒である野蛮人の日本人を正しく改宗させずにいれば人々は死なないし、どうしたら良いのか、神さまどうしてあなたは沈黙しているのかというような話でした。日本人にはキリスト教が馴染まないし、布教しても完全に彼らの思うキリスト教ではない異質な何かに変貌してしまう、この文化圏には合わないのかもしれないね、みたいなことも言及されていた。

 ツイッターでニューヨーカーが電車の中で歌い始めて、乗客もまざってみんなで合唱しはじめる、といった動画が流れていた。意識高い系のツイッタラーはニューヨークのこういうところが好きなんだ、と話していて感情の表出や見知らぬ人々との交流が好きなヨウキャさんなんだなあと考えたりした。国民性という言葉を聞くと、文化と脳について考えてしまう。おそらく我々は電車で誰かが歌っていても統合失調症なのかなと思うことはあっても混ざって合唱したりしない。これは純粋に文化の問題だけど、それが脳の器質的な差からくるのか、島国だったり温帯だったり単一民族が多くを占めているといった環境の影響なのか、そして後天的に外的な文化的なシャワーを浴びることで脳に器質的な変化が起こって国民性と言われるものが形成されるのかみたいなところを示した研究はないんだろうか。脳の器質的な差を見るのは難しいかもしれない。けれども、海沿いや山奥や都市部といった差と人格の影響があるのかとか、それが文化圏によらず日本の内陸とキルギスボリビアの人々で気候や生活の豊かさ(ビッグマックの値段と賃金などを指標にしても良いかもしれない)を補正すると同じ傾向があるのかとかは気になる。ただ、アンケート法で調査した場合にアンケートに答えてくれる人というだけでかなりサンプルが一般市民からかけ離れてしまうことが予想される。ランダムな電話調査にして脱落数が少なければそれがベストかもしれない。この手の論文があるのかどうかすら分からないし調べる手段もない。自分に無縁な領域について文献を集めることは本当に難しい。

 僕は総合診療医になってしまった、という言い回しを使うことがある。自分の人生の責任を自分で負わないタイプの物言いで、そのフレーズを用いる度にイケてないなと感じる。生い先短い人々の終末期の病状説明を行う時に感じるのは責任の所在が自分にあることに対する恐怖だと思う。アラバマだかオハイオだかの遠い親族がやってきて、お前がこんな決定をしたのか、と実際に詰め寄ってくることはないのかもしれないけれど、判断に責任が伴う時に罪の意識を孕んだりしてしまう、のだと思う。少し前にACP(advanced care planning)を人生会議と名前を変えようと厚生労働省が言っていたように思う。これはまさにこの罪の意識の軽減に寄与するものだ。わたしはこの身近な親族に少しでも長生きしてほしいと願わなくてはいけないかもしれないが、この本人がもう終わりにしてくれと思っているはずだとみんなが思うならそれを尊重しなくてはならない。そしていざという時に本人の思考をエミュレートするために会議がとりもたれ、まだ起こらない好ましくない事象について本人がどう判断するのかの根拠を得ていくことで、それが仮令未知の事象であったとしても判断をしやすいよね、という話だと思う。少なくとも僕はそう解釈している。つまり責任の所在を本人にうつす行為に他ならない。

 以前はこういった取り組みが、誰も幸せにしない僕らの行う医療行為を激減させると信じていた。今はあまり信じることができない。脱水と口渇とは違うことを知っているし、末梢点滴をするか、それすらせずに本人の苦痛をとるだけの選択肢があることを知っていて、それらを家族に提示できると思っていた。結局のところ、末梢点滴のみの患者を療養病院は儲からないから受け入れたくないし、食べられない点滴もしない患者を何かあったら嫌だからと施設も受け入れてはくれない。ただ静かに何もせずに死を待つだけの人々の居場所がそもそも用意されていない。薬剤耐性菌について心配するなら根本的な治療のできない嚥下機能が廃絶した高齢者の望まれないCVC-TPNや胃瘻を減らすべきではないのかな。平穏な死の選択肢を消し去ったことで、NHCAP(老人ホームとかで起きる肺炎のこと)は激増する。療養病院では抗菌薬の適正使用はされない。先日聞いた療養病院の話。誤嚥性肺炎には一番安いという理由からPIPCが使われる。ちなみに経鼻胃管の挿入の際にレントゲン撮影を行うと叱られる療養病院もある。勿論レントゲン撮影を行わない場合に気管に挿入されていて栄養剤を注入されたら死ぬこともあるだろうし、これで訴えられたら負けるに違いないがレントゲンを撮ることは経営上不適切のため禁じられているらしい。何をやっているんだろう。

 患者家族にばかり責任について考えさせる非対称的な関係性について問題にしている人を見かけないのは僕の意識が低いからなんだろうか。僕はこの責任の問題が日本の文化圏で終末期の話を行うことのハードルだと認識していたのだけれども、施設や病院の受け入れ基準といった医療介護側の要因も大きなハードルになっているなと感じる。人生会議とします、とか名前を変えることを考える暇があったら非ガン患者の死を待つ場所をつくってくれたら良いのに。

 

はたらきたくない、しあわせになりたい

 今日はお仕事お休みの日、せっかくのお休みなので昨晩は酒も飲まずに11時には床についた。梅雨が明けたのか信じられない暑さになっていて、夜になってもアパートの室内は出来損ないのサウナくらいの湿度と温度で嫌になってしまう。家中の窓を全開放して換気扇を強にして、パンツ一枚でお布団で大の字、目の前の居酒屋から酔っ払いの声が聞こえてくる。最近暑い日に車では沖縄の音楽をかけてバカンスなんだと言い聞かせている。この日は、ここはサイゴンの安宿だと自分に言い聞かせて寝た。酒を飲まずに眠ることができる時に酒を飲まないことが大切。朝6時に暑さで目が覚めたが、休みの日に予定もないのに早起きするのが何となく癪で二度寝して起きたら夕方になってた。冷房をつけようとしたがリモコンの電池が切れていて無理だった。ちくせう、役立たずめ。

 休みの日にも一応ふらっと病院に行くことも多いのだけれども、今日は寝すぎたせいか暑さのせいか頭痛がひどくてまったく仕事のことを考えないことにした。近所の業務用スーパーで豚肉を600g購入して一気に焼いて食べたらさらに体調が悪くなった。具合が悪くて動けないので、ホームシアターで『アマデウス』の続きを観る。天才のモーツァルトと彼の天才性が分かる程度に立派な凡才サリエリの話。あとコンスタンツェのおっぱいの話。過日、ツイッターでできる人ほど謙虚だという話が流れてきた、曰く、立派になればなるほど周りにより立派な人が現れるので自分の凡才性に向き合う機会が増えて真に謙虚になるとか何とか。謙虚で済めば良いけれど、狂おしく嫉妬するのもまあ分かる、分からないか、分からないや、僕には。

 とにかく頭痛と嘔気がひどくて、暑いせいかと考えて冷えたマクドナルドに避難してコーヒーをすすって本を読んでいたら夜になってしまった。先日、生産性について考えていたので今日はとことん非生産的に過ごしている。

 Tinderをインストールして、職業を医師にしたらマッチが増えた。田舎で身バレリスクが怖いので顔は出していない。ちなみに美人局が怖いので連絡を取った誰にも会っていない。あ、勿論もともと知り合いだった人は別。何のためにやってるんだかよく分からない。陰気な自己紹介文のせいかマッチする人にうつ病が多くて、なんだかなと思って婚活よもやま話などに変えてみた。以下のようなー自分の価値は生涯収入にあるため恋活でなく婚活に重きを置かないことにはモテることはないだろう、男性医師の生涯未婚率は極めて低いのだが、それは恋活市場でのモテを意味せず、「あなたを愛せないが、あなたはどうせ家に帰ってこないから別に関係ないし、むしろあなたの生涯収入を愛すことはできる」を意味する。僕の価値もきっとTinderではほとんどないので、真面目にやるのもアホくさいし、最近は飲酒量が減って固形便が出るので全然うんこをもらさない話など書いている。何でアンインストールしてないのかと言われると良く分からない。恋活市場への未練か。

 休みの日に病院に行く意味も結局のところ価値の話だ。もっとも自分の価値が活きている時とは、と考えるとそれは映画を観ている私ではないし、ブログを書いている私でもなければ、婚活をしている私や酒を飲む私、ジョギングする私ではない。働く私だ。代替不可能な存在になろうとする人は多いけれど、そんなものはほとんど不可能な話で、代替可能な人で補えてそれでも回るように社会が出来ている。目指すところは代替可能性の低い私、くらいがせいぜい。田舎で総合診療医として勤務して、しかもそれも地元に残って働いている人はそう多くなさそうだし、そういう意味で僕は代替可能性の低い人間で、となると病院にいる限り、僕は社会にとって有用な人間として機能している。だから、立派になろうとすればなろうとするだけ僕は僕自身の価値を信じることができる。病院に行くのはきっとそんな理由だ。仕事が嫌いかというと実のところそんなことはない。ただそんな価値依存性の生き方から抜け出したいような気も、ちょっとだけしている。今日はなんだか体調が良くなくて病院に行く気がでなかった。

 映画アマデウスサリエリは自分の凡才性に思い悩むんだけど、僕はと言えば、そらァ上を見ればいくらでも上がいるのは分かっていて、上の人々の立派さが分かる程度には僕も立派(!)なわけなんだけれども、そこに至りたいかというとちょっと違うんじゃないかという気がする。代替不可能な何かに近づきたいような気がしているけれど、修羅の道を行きたい訳じゃない。普通に平凡にきれいなおねえさんと2人たまに近所のパン屋でパンを買って家で美味しいケニアのレッドマウンテンでも淹れて、ホームシアターで映画を楽しみながらたまに横をちらと見た時に楽しげな顔のおねえさんがロッキングチェアで揺れているのを感じたいだけなんだ、きっと。これが得られないから代替的に、代替不可能な職能を求めようと病院に依存してしまっている。

 家に帰ってきたがさすがに暑すぎて死にそう、ここはサイゴンでなくて関東の田舎だし夜にはデカイ蛾やカナブンが飛んでいる。役立たずめと思っていたエアコンだが冷静に考えるとリモコンの電池を他のリモコンと入れ替えればいいだけじゃないか。ブルーレイプレイヤーのリモコンの電池が単4だったので、それと入れ替えて冷房をつけた。涼しい。ブルーレイのリモコンは使えないが、プロジェクターのリモコンでブルーレイプレイヤーを操作できるので問題ない。なんだか切ない気持ちになって、ブルーレイのリモコンを抱きながら、今日の映画を観ることにした。『沈黙』を借りてきた。ちなみに『ちいさい言語学者の冒険』を読了した。家の酒が尽きそう。キンキンに冷えたハイボールを飲みたい。

生産性の話

 本を読まなくなったのはいつ頃からだろう。というか読めなくなったのかもしれない。購入する癖はなかなか抜けないので読まれない本たちがいつまでも机に積まれている。最近買った本は『ちいさい言語学者の冒険』『裏山の奇人 野にたゆとう博物学』で前者はまだ開いてなくて、後者はコーヒーをこぼしてページがなかなか開くことができず読めなくなってしまった。悲しくて悲しくて仕方がない。お金で解決できる問題について精神的な負担を感じることが好きではないんだけれどーよくADHDの最高の治療薬は金だとか言うくらいだしー一部の物については購入した瞬間、陳列棚から手元に来た瞬間になんだか特別で固有な一個の存在のように感じられてしまって、壊したり汚したりしてしまうとなんだかとても切ない気持ちになる。

 今日は珍しく仕事が6時半くらいに終わったのだけれども、独り身で家に帰っても酒を飲んでしまうだけで、何一つ生産性のあることをできる気がしなかったので、医局でちょっと美味しいカップ麺を食べながら雑誌を読んでいた。

 生産性がない時間というのが昔から苦手だった。小さな頃ぼんやりしながらふとんの中にいると近くに置かれた目覚まし時計の絶え間ない秒針の動く音が耳元で聞こえ続けて、今この瞬間すらもゴウゴウと流れる時の中にいることを教えられているように感じられて一人で恐怖に震えてたりしていた。寝ることが苦手で、部屋に古い小さなブラウン管テレビが置いてあったからいつも夜中は静かな音で金曜ロードショーなどを観ていた。物語は僕に関係なく前に進んでいくのでなんだか生産的な気がして良かったのかもしれないし、時計の音が聞こえなくて良かっただけなのかもしれない。

 テレビで観る映画の良さはモノを選べないところだと誰かが書いていた。確かにエッチなものに興味津々な小学生男子が『インビシブル』でおねえさんのおっぱいを観ることができたのも金曜ロードショーのおかげに他ならないし、それは僕の積極的選択によるおっぱい鑑賞ではなかったし、僕はおっぱいが好き。ええと、何の話だっけか。

 大人になってからゲオやツタヤのレンタルで円盤を借りようとすると、本当にこの映画は自分の限りある人生の2時間を使うのに足る作品なのか、翌朝のためを思って早く寝るよりも人生において生産性のある営為なのか、と。そんなことを考えてしまうようになった。でも冷静に考えてみると、映画を観なかったところで家に帰って酒を飲むだけで、何一つ生産性のあることはできないんだ。

 先日ツイッターで、一回も会ったことのない高校生の頃に塾が同じだったのか何だったのか分からないけどなぜかmixiで繋がってたまに日記にコメントをくれていた今は人妻のおねえさんが生産性がない時間が苦手みたいな話をしていた。生産性がないことが苦手な層は一定数いるみたいだ。

 精神的体力みたいなものがある程度ないと物語や他人の思想に長時間向き合うことができない。精神的体力が少ない時にすぐに空いた時間でできることといえば酒を飲むことくらいなんだけれど、そのあまりの生産性の乏しさにメンタルが削られてさらに非生産的なことしかできなくなってしまう。

 必要なのはきっと生産性がなくてもあなたは呼吸しているだけで価値があるのよみたいな、そういうママ的愛なんだと思う。夜、長くなってきた梅雨時の生暖かな風がコンビニにウイスキー用の氷を買いに行く僕の体の周りをじっとりと流れて行く。自分の価値を自分で見つけることは難しい。独り身でいるとは、常に「あなたは誰にも愛される資格がない無価値な人間だ」と言われ続けていることに他ならない。無価値なものを許せないとどんどん気持ちが落ち込んでいく。生産性の呪いからの解放が、きっと愛されない自分への赦しに繋がるんじゃないか、ええいどうせならもう一杯のんでしまおうかしら。冷蔵庫を開けると山形で買ったとびきり美味しい日本酒(三百年の掟破り)の四合瓶が二本転がっているのを発見した。だめだ、あけちゃダメだぞ、これはもっと生産性のある飲み会で開けるボトルだ……。

IDATENの話

 曇りの日が続いていると何となく明るい気持ちになれない。特に二日酔いの日は尚更そうで、特に何か悪いことをしたわけでもないのに無性に不安な気持ちに襲われたりする。何か昨日つまらない話をして他人の気分を害してしまうようなことはなかったかな、みたいなことを延々と考えている。翌朝に仕事のある日はそれでもまだ良くて、頭痛と嘔気でしんどい体を引きずって仕事に行っていれば肉体的なつらさで精神的な不安定さがどうでも良くなってくる、透き通った睡眠欲求だけが残る。最近飲み会が多くていつもメンタルか体のどっちかがすり減って疲れている。

 ところでタイトルのIDATENは感染症教育の会で全国から感染症の偉い先生が集まって講義をしてくれるもの。ちなみにこの会のメーリスというのもあって、こちらも主に感染症領域の勉強会のお知らせが流れてきて勉強になることもあるが、いかんせん数が多いので全部に目を通すことは現実的にできない。西伊豆病院の先生がよく有名ジャーナルのレビュー論文をまとめてくれているのが勉強になる。文章が頭良さそうで良い。

 つい先日、このIDATENがみなかみ町で開催されていた。みなかみ町群馬県新潟県の県境となる谷川連峰を擁するど田舎、というか秘境である。霊峰谷川岳について特筆すべきはその死者数で、ウィキペディアにも「1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2012年(平成24年)までに805名の死者が出ている[3][4][5]。ちなみに、世界各国の8000メートル峰14座の死者を合計しても637名であり、この飛び抜けた数は日本のみならず「世界の山のワースト記録」としてギネス世界記録に記載されている[6][1]。」とある。ちなみに上越新幹線がこの山々の下を通っており、よくJRの駅の自販機で見かけるFrom AQUAという天然水がトンネル掘削の際に出てきた湧水を利用しているなんて小話もある。そんな街で勉強会があった。温泉街なので、早めに来て近くを散策していたら、小洒落た地ビール工場(といってもせいぜい民家程度のサイズである)を見つけた。勉強会前なので一杯だけ飲むことにした。残りは帰りに買えば良い。

 IDATEN自体そんなに目新しい内容が多くはなかったんだけど、輸入感染症やワクチン、小児の敗血症なんてのは普段あまり勉強しないので良かったし、何よりエキスパートオピニオンを気軽に聞けるのが良かった。

 気になったのは感染症診療のロジックという講義で感染症診療のロジックについてあまり話していなかったのは聴取のレベルを過大評価している印象を受けた。感染症診療のロジックというと、一般的には

0 そもそもそれは感染症なのか?

を頭の片隅におきつつ

1 どのような宿主の

2 どの臓器で

3 どんな微生物が悪さをしているので

4 この抗菌薬をこの量でいく

というようなステップを踏むことを言うような気がするし、研修医1年目の人とかもいたのでそういう話をしてあげても良かった気もする。

 例えば、80代男性の脳梗塞後遺症、慢性心不全、施設入所中の方の数日前からの微熱体動困難酸素化悪化あり、本日具合悪すぎて救急搬送、BT 37.2 PR 135 BP 90/45リザーバーマスク10l/min spo2 89%

0 急性だし感染症で良いかしら、でも酸素が悪いのは心不全に感染かぶって急性増悪して肺水腫とかもありそうだな

1 高齢だからちょっと細胞性免疫低下した宿主なんかな、施設入所中だしインフルエンザとかないっしょ、脳梗塞後だし嚥下機能わるいんかな、しかし雑に繰り返す誤嚥性肺炎とかいって結核見逃したらクソいけてないなー

2 レントゲンだと肺はたしかに汚いけど、これが心原性肺水腫ではないと言えるかというと自信ないなー、尿は汚いけど無症候性細菌尿かもしれんしなー、前立腺は大丈夫げかしら、皮膚はどこも赤くないし、関節も腫れてないしー、腹も痛がってないしなー、おっめっちゃ痰でてくるな、ずるずる膿性痰引けるぞ、これは流石に肺炎で良いやろ!

3 どんな菌かしら、肺炎とすると緑膿菌とレジオネラをカバーするかどうかで抗菌薬の選択は大きく変わってくるやね、一般的には肺炎球菌とかモラキセラ、クレブシエラ、インフルエンザ桿菌とかですかね、と思いながらグラム染色みてみますかね、おっ、肺炎球菌ぽいのだけ沢山いる、ペニシリンGでええやろ! 自信なくても少なくとも緑膿菌カバーもレジオネラのカバーも要らないね、重症肺炎だけど!

4 PCGでいきますか

とゆるゆるやってるとショックなので死ぬけど、理想的にはこれをやりたいよね、現実的にはバイタルの蘇生と培養とるのと抗菌薬投与を急ぐ状況になるからグラム染色とか見てる暇ないんだけど。

で、うまく行かない場合にもどこかのステップで考えを間違えたかなと検索していく。たとえば良くならない時に

4 量が足りないとかあるか?

3 あれ、肺炎球菌じゃなかったかしら? いやでも一応技師さんにも見てもらってこれは肺炎球菌でほぼ間違いないって話だったしな、あるいはペニシリン耐性なのかな、いやでも肺炎球菌性肺炎についてはメチャクチャにMICが高くない限りペニシリンに耐性でも問題ないから普通効くはずなんだよな

2 なんか意識悪いけど実は肺炎球菌性髄膜炎かぶってるとかないよね、髄膜炎だとするとちょっとまた耐性かどうかの解釈が変わるしこれ腰椎穿刺した方がいいかな。そういや胸水たまってるけど、これ膿胸じゃないよな、膿だまりとかあるとさすがに抗菌薬で押し切れないとかあっても良いかもねドレナージ必要かな

1 なんか実はすごい量のステロイドをのんでたとか

 

この作業は結構大変なので、これとは別に入院中のよくある発熱の原因(よく6Dとか言われるやつ)を探してみても良いかもね、となる。あと抗菌薬の効果判定は熱とCRPも参考にはなるけど基本的には臓器特異的なものを使おうね、みたいな話とかね。肺炎なら酸素化を蜂窩織炎ならその部位の発赤が減ってるとか、全身状態も熱やCRPより全身外観、飯を食べてるか、動きが良くなってるかとかをみましょうね、とか。

一コマくらいはそんな基礎的な話をやってみるので良かったんじゃないかという気がしたけれど、4万円も払って山奥まで来てる人は研修医1年目であっても上澄み層だろうし、そう考えると基礎編を話したって仕方がないのかもしれない。よく分からない。

 1日目の夜は真面目に勉強していたが、夜に怖い研修医の小さな女の子にいかれた量のアルコールを飲まされて死んだ。沢山食べたローストビーフを嘔吐して、悲しくて泣いてしまった。その子は太り過ぎて膝が痛くなったことにショックを受けて25kg痩せた話をしていた気がするが泥酔していたので覚えていない。救急科の後期研修医のおねえさんにはやく結婚したいんですよねとかうざがらみしていた。大人なのでいや東京に来てくれない人はダメかなとか流してくれていた気がする。僕も大人になりたい。大人のおっさんたちは夜の街にスナックを探しに消えていった。僕はIDATENも広義の女医コンなんだなあと思いながら日本酒のグラスを傾けていたつもりだったが、実のところ傾いていたのは自分の体だったのかもしれない、気がついたら知らない部屋で寝ていて、口の中がDKAの患者みたいに、砂漠を何日歩いてきたのってくらいのガサガサさで、頭はチェ・ホンマンに握り潰されているのかというくらいに痛くて、胃が内反してるんじゃないかってくらいものすごい嘔気に襲われていた。飲み過ぎた翌朝の何とも言えない罪の意識を感じながら水分を摂ってはトイレで嘔吐するのをしばらく繰り返していた。

 その翌日は例のおしっこもらし研修医、旅館の向かいの部屋のロボットダンスが趣味の僕と同い年の女性研修医と飲んでいたが、昨晩酩酊して数人で歌いながら二次会会場に行ったことにみんな怯えていたのか二次会会場に行ってみても会話に混ぜてもらえなかった。負けるものかと鏡の前でロボットダンスの練習をしたり酒を飲んだりして意識の高そうな陽キャたちをビビらせようとしていたがなかなか難しかった。オタサーと姫みたいになっていたから男女比が崩れるのが嫌だったのかもしれない。エッチできるかもしれないのギラギラと自己肯定感を得たい女性の平和なギブアンドテイクの世界に土足で乗り込むのは良くない。これは僕の責である。

 3日間永遠に勉強し続けていて死ぬほど疲れた。最後別れ際に後期研修医のおねえさんの連絡先をゲットしたけど東京に行かないと交際はできないし、そもそもそんなのテイの良い断りの文句じゃないか、君のことは普通に嫌いですよ関わらないでくださいと言わない程度に大人な人間が事を丸く収めようと言ったセリフを間に受けてはいけない。

 IDATENの帰り道、旅館近くの地ビール屋さんでビールを購入しようとしたら車が駐車場から店につっこんでガラスが飛散していて買えなかった。なかなか人生思い通りにはいかない。でも、ここ最近曇り続きだったのに、その日みなかみ町は珍しく晴れていたし、僕も珍しく二日酔いではなかった。近くの蕎麦屋でエアコンの効いた中湧水でいれた良く冷えた麦茶を飲みながら天ぷらそばをすすった。家に帰って陽の光を浴びながらおねえさんにラインなど送っていた。こんな丁寧な生活を送りたい。冷静に考えると二日酔いでなくて天気が良いだけで、普段と何か著しく違うわけじゃないんだ。となると、酒をやめろ、以外にない。酒をやめろ! はい。

 ちなみに今家に残ってるラフロイグ10年を飲みながら文章を書いている。おいちい!!