ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

病気の話

こんばんは当直です。外来が途切れた隙間に書き進めていきます。

 

突然ですが、働く前、僕の周りには「人を助けるためにお医者さんを目指しました」なんてことを表だって話す人はあまりいなかった。もちろん、何かを表明することは、何かを思っていることとは全然違うし、20歳前後のまだみずみずしい感性を持った学生たちにとって、そんなことを言うのは少し気恥ずかしかっただけなのかもしれない。むしろ、私のように何となくなってしまったタイプの人間の方が声が大きかったような気がするし、ひょっとしたらそれは会ったこともないけれどとてつもない熱意を医学部受験に向けているものの受からなかった人たちへの薄暗くて恥ずかしい優越感のせいかもしれない。

今は地方都市の200床に満たない中規模病院で研修しております。アンチバイオグラムが存在しなかったり、夜間の救急外来のおきぐすりには第三世代セファロスポリン系抗菌薬が置かれているくせに、第一世代セファロスポリン系が置かれていないために、嫌気性菌カバーの必要のない傷に対してもCVA/AMPCを処方するほかなかったり、看護師さんが一人しか救急外来にいないので、CPAが来ると救急隊員にも手伝ってもらわないといけなかったり、紙カルテだったり、SAHも脳梗塞も来るのに放射線技師さんは夜間当直していないので自宅から呼ばないといけなかったり、色々とはじめてのことや足りないところもいっぱいありつつも、自分が何かしら改善できるところが病院の中にあるので、それはそれで何だかやりがいを感じてしまう。指導医に言われた通りに電子カルテをクリックしているだけの研修もどうかなと思うし。何より、検査室が救急外来から近いので、検体とって2分あればグラム染色を確認できる。これが便利で偽痛風vs可能性関節炎とか、尿路感染や肺炎で緑膿菌カバーの必要があるかどうかとか、さっとわかるので良い。しかし感染症は興味がありつつも専門にするかと言われるとそれはそれで違うような……。感染対策とかしたくないし。

話がそれました。さて、小さな病院だからか、積極的な治療をしない人なんてのも結構いるんですね。たしかに、100歳近い認知ゴリゴリのじじばばが嫌がり泣き叫ぶのを押さえつけて検査して”正しい医療”を行うことがどこまで正しいのかよくわからない。というか正しくないとわかる。慢性期の高齢者に対してのCVC挿入を主治医から頼まれて隙間時間にいれるたびに患者家族教育の敗北を思っている。たいていCVC-TPNになるのは限界な人で、飯が食べられないのは認知症の進行ですべてがよくわからなくなているか、精査されていない悪性疾患の進行によって食欲がないとか、嚥下機能がおわってて、無限に誤嚥性肺炎しているとか、そんなところ。胃瘻に対しては、国が(?)ネガティブキャンペーンしたために乗り気な人が少ないのかもしれない。一方で、CVC-TPNでは点滴の延長みたいな印象で何となく決断できるのだろう。しかし、しかしねえ、どうせ唾液を誤嚥して肺炎になるし、本人は痛がるし、ただ呼吸して天井を眺めて、定期的に褥瘡をデブリされてうなり声をあげながら、糞便を垂れ流しているだけ。別に人を幸せにしようなんて、大義名分があって仕事しているわけじゃないけれど、だれかを苦しませるような仕事はしたくなかったな、なんて思うこともあるんです。そんなことを考えると、とたんにやる気がなくなってきてしまう。僕がやっているのは、宗教と介護の隙間に落ち込んでしまった人々なんですが、ここで必要なのは医療ではないんですよね。本来的に違う方法で介入しようとしているからうまくいかないんだなと思う。慢性心不全の急性増悪だと勘違いして、腎不全による溢水を治療していてなかなかよくならない、といった感じ。(いや、実際には心不全によるアウトプット低下による腎前性ではなく、うっけつによる腎機能低下だったりして、腎性であってもハンプとフロセミド持続静注でよくなることも経験されるか、あああ、わかりにくいたとえに)とにかく、ここに必要なのは僕ではなくて、坊主や牧師だなと思っている。死生観に向き合うことが全く僕の仕事に含まれていないとは思わないけれども、やっぱりそこに力を割いて医療者としてのプロフェッショナルな領域がおろそかになることが許されてはいけない。僕がここで地域包括ケア病棟などで診ている患者は病気ではない、と思っていた。

じゃあ、若い人はどうかというと、たいていは生活が限界で病院に全然かからないとか、かかれないとか、精神科疾患があって限界まで病院に来ないとか、境界ギリギリで誰にも支援されない知的障害者だとか、そういう人が多い印象。そうでもなければ生来健康な壮年のヒトは入院なんてなかなかしない。救急外来なんて、本当に社会の本当に底辺の人に出会ったりする、どうやって今まで生きてこれたの? みたいなね。これは別に大学病院の救急外来でもそんな感じだった。

最近、LGBTに生産性がないという発言が波紋を呼んだけれど、やっぱりヒトを生産性という軸でみる社会はつらい。生産性についての発言で対立を生む人自体も非生産的だし、多くの人は何らかの点で非生産性を持っている。非生産的なものを許せない社会は多くの人にとって生きにくいはずなのに、どういうわけか非生産的他人に厳しいのは自分の非生産性についての視点が欠けているんだろう。

病気も生産性もそうなんだけれど、これらは複数の軸を持つグラデーションになっているなと思うの。多くの人は不完全で、その不完全性の許容できなさによってそれを病気かどうかと認識している。不完全性や非生産性への理解が進むといいなと思うし、それは自分自身への内向きの視点の獲得の過程でもあると思うね。

僕のプロフェッショナリズムはここにはないなと思いながらも、限界な人々を見ていると、色々思うところもありますね、というお話でした。はあ、外来あんまり途切れなかった。きちんとまとめて書くはずだったんだけれども、もう二時になるから寝る、続きはいずれ。