ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

病気の話の続き

昨晩、夜中に一人エアコンの音だけがさみしく響く医局のデスクで当直の外来が途切れた時間に最近病気について思うことなど書いておりました。医学部に来たくなかったというのは、醜く薄暗く恥ずかしい優越感によるものの可能性があるという話、人を助けたいなんて大義名分は掲げていないけれど嫌がる高齢者にいわゆる正しい医療をすることが苦しい話、若い人は若い人で何かしら問題があって入院に至ることが多い印象だという話、けれども我々自身も完全にまともで生産的な人間じゃないし、連続性のある非まとも性や非生産性の中で、どこかに折り合いをつけて生きていかないと、素敵な人だけにやさしい社会は本当に生きにくいという話。

どこまでが病気がというのは非常に難しいなと感じている。夜中に救急外来にくる人はたいていメンタルの問題を抱えている。普通はちょっと何かがあるくらいで深夜に病院には来ない。不安で、腹が痛い、胸が痛い、何だか頭も痛い気がする、気持ち悪い、動悸がしてきた、ああ、息が苦しい、はあはあ、ううう手先がしびれてきたよ、もう死ぬのかもしれない、いや、死にませんよ。あるいは、知的障害があって何だかよくわからずにオーバードーズしてしまったり、何だかよくわからずに独歩可能なのに救急車を呼んでしまったりする。ほかにも、絶対に緊急性のない不眠なんていう主訴できたりするが、正常な判断力のある人間ならば、夜間の救急外来でかかりつけ医でも精神科医でもないのに不眠症にたいして適切な治療ができると思うはずがない。相当メンタルが限界でないとそんな選択肢はとらないだろう、自殺の前に最後に助けを求めに来ているなんて可能性もあるよと聞いてから、ひょっとしたら横で寝ているちょっと重症そうな肺炎や尿路感染のじじばばよりも明日死んでいるのはこの不眠症のおじさんなのかもしれないなと思うようになった。

明らかに自殺を考えているような状態なら別だけれど、(認知症だったり先天的だったりで)ちょっと頭が弱くて病状説明が理解できないとか、薬をきちんと飲めないとか、僕みたいにPHSを一日に何回もなくしているADHD諸氏とか、何かパーソナリティいけていなくてやたら話すときに偉そうだったり感情的だったりする人とか、これどこまでが病気なんだろうなというのは非常によく感じるんですよね。

もちろん腹立たしさを感じることは、特に睡眠不足の時にはないわけじゃない。訴訟のリスク回避のために患者満足度を下げることが許されないから、にこにこと対応しているけれどもね。でも、我々自身も不完全だからという理由で、不完全な患者たちに愛ある対応をするのは難しいですね。別に愛する必要なんてどこにもないんだけれど、指導医氏が普通に愛ある診療をしていると、僕は一体何なんだろうな、と少し引け目を感じてしまう。僕はいつも一歩はなれた立ち位置で一ミリも感情移入することなく、君はすでにとうに寿命を超えているんだ、責任をとりたくないあなたの家族によってこんな形で生かされていて大変だねえ、と思っている。

先日、医局のごみ箱に誰が飲んでいるのだか知らないが、ストラテラの空いたシートが捨てられているのが目についた。おっ仲間だね、わしもそろそろ飲もうかな。生活が限界。みんな自分の不完全性と戦っている。わしも、このひねくれがちな性格の不完全性とまともに向き合っていけたらいいな。不完全な自分をもう少しまっとうな形で受容できたならば(他人を理解しようなんて大それたことは思わないけれども)せめて疲れない程度に不完全な他人に接することができるんじゃないかな、ぼく。