ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

君がウキウキしてるのは

どうしてもテンションの上がらない時がある。さすがに人前に出てずっと苦虫を噛み潰したような顔しているほど不躾ではないので、誰かと話していればなんとなく型通りにニコニコして、そのうち自分の表情に引きずられて気分が回復してくるのだが、誰にも会わない休日の朝のふとんの中でテンションが下がるとキツイ。先週の日曜日がそんな朝だった。気分の上がらない時は体を動かすと良いことがn=1の観察研究(つまりわたしの経験上)で明らかになっているから、朝から近所を走ることにした。

川沿いに朝靄が立ち上る河岸段丘を下へ下へと降りていく。走る時は何も考えないでいることができる。性格の問題なのか、何なのか分からないけれど、常に何かを考えがちで疲れてしまう。

つい先程、セブンイレブンのホットコーヒーの抽出を待っていたら、クリスマスツリーの横でやたらと楽しそうにしている3歳くらいの少年がいて、暖かい気持ちになった。クリスマスが近いとウキウキするよね。いや本当にクリスマスが近いから彼がウキウキしてるのかどうかは分からんけれど。そもそも自分自身に関してすら、クリスマスが近いとわけもなく小さい頃の記憶を思い出してかウキウキする、ということが本当に正しいのかどうかよく分からないもんね。

いつの頃からか分からないが、気づいた時には感情には理由があるという信仰を持つようになっていた。ひょっとしたら国語教育のせいかもしれない。暗い空から雨が降って傘もささずに俯いている男の子がさっき友達のプラモデルを壊してしまったのだとしたら、それは罪の意識を感じているからだと答える必要がある。でも、ほんとはそんなこと関係なく本当にわけもなく泣きたい気持ちになっているだけかもしれない。

余りに日々に溶け込んでいるからこの宗教の存在に気がつくこともあまりない。時々説明できない感情の動きをなんとか説明しようとする時にこの問題にぶち当たる。ひょっとしたら、僕はわけもなく悲しくなり、わけもなく楽しくなっていて、そこに常に尤もらしい理由づけをしているだけなのではないか。

そこに感情の動きがあるなら、その成因が論理的に説明できるはずだという主張をする説明的感情成因論原理主義者とでも言えるグループの一員に気がついたらなっていた。そして非常に説明的な人間になり、物語も詩歌も説明され尽くされなくてはいけないような気がしてしまい、しかし説明され尽くされてしまうものは作品としていただけない、と言うダブルスタンダードを身につけてしまった。なにそれきもい。

強迫性障害の人が家の鍵をしめる確認をしないことでどうなるのか、現実的にそれはどのくらいのリスクなのか、そしてその論理的に正しいリスクを非論理的なあなたはどの程度信頼することができて、そこにどのくらいの認知の歪みがあるのか、といった話をされながら治療していくように、僕自身も自分の不快な感情に対して論理的な説明を与えることで解決を図ろうとしているのかもしれない。

けれどもそんな試みは大抵成功しなくて、結局走ったり筋トレしたりしてた方が気分の調子が良かったりする。テンションの上がらない理由が分からないことにまあそういう日もあるよねと朝日を浴びながら川沿いを走ってるとだんだんと朝靄が晴れて、気分も良くなってきた。いいぞ、これだ、思考を放棄して楽しくなるぞー!! ポカポカしてきて、明るくて気持ちいいねえ、これは高照度光療法だ。季節性感情障害にエビデンスがある。

また説明してしまった。説明的感情成因論原理主義者からの脱却への道は遠い。