ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

やさしさの理由

 天気予報は雨。午後になってから窓のない部屋にこもっているから外の天気を感じられない。エアコンの音とたまに廊下を行き来する人の足音が届くだけの狭い当直室でずっと突然指導医から頼まれたケースレポートを休みの日に書いている。適度な時間になったら近所の温泉にでも行くつもりが、気が付いたらもう20時を回っていたから諦めることにした。

 自分の機嫌を自分でとりましょうよ、といった主張を最近ツイッターでよく目にする。僕は単純な人間なので、温泉に行って疲れを流して、美味しいものを食べて(それはこってりしたカップラーメンでも半額の戻りガツオをニンニク醤油につけて食べるのでも良い)、一杯のめればそれで何とかなってしまう、あと睡眠。他人に当たってくるタイプの看護師さんに僕についてる研修医氏が困っているのを見かけた。機嫌を自分でとれないというのは人格が未熟だからに他ならないし、それなりの年齢になってもまだ人格が未熟なのだとしたらそれは病気に近い。周りの優しさによって社会生活に困難が生じていないことで、何とか診断名が付かずにいられているだけだ。

 かつて僕が精神科実習中に、1週間に2度も財布を失くして交番に届けられていたこと、大会をダブルブッキングしてしまったこと、宿題を失くすから定期テストの出来が悪くて平均評定がすこぶる低くてどこの推薦ももらえなかった話などをして、社会生活を送っていく自信がまるでなく、きちんと診断されて適切な薬を処方されればより日常が円滑に進むのではないか、と指導医に提案してみたことがあった。障害の有無というものはそんな特性があっても結局のところその個人が社会生活を送れているのか、にかかってくるので、君はそれで何とかやってこれているんだからいいんじゃないの、というところに落ち着いた。周囲のやさしさがないと生活が困難だなんて困ったナーと思いつつも。

 先日、総合診療科専攻医の2年目の方が書かれている文章(色んな意味で死を恐れた私へ|ていねこ|note)を目にする機会があった。総合診療科なんてくそニッチな専門科(というとそもそもそんなものは専門科ではないと難色を示す人もいるけれど)を選んでいると、近場の年代の人が何を考えて日々を生きているのかな、なんてことが気になることもある。僕はまったく優しい人間ではない自信があるので、こういう素直な人の素直な文章に触れると、以前は小馬鹿にしていたかもしれないし、今になってみると悲しい気持ちになってくる。

 生育歴を振り返ってみても、どうしてだかさっぱり分からないのだが(そしてその説明のつかなさに果てしないもやつきを感じるのだが)、素直なやさしさというものに(ひょっとしたらそれを人前で公言することに)いやらしさを感じて、非常に強い抵抗がある。そうでない人間が敢えて「優しい人間ではない自信がある」なんてセリフをネット上で夜中に書くはずもないことがその何よりの証左である。そういうタイプの自慰行為が好きなんだって素直に言ってくれよ、気恥ずかしいのか、とかね。

 でもおそらくこの先生は本当に、それが承認欲求か自己実現か何のためかは知らないけれど、真にやさしさから仕事をしているのだろうな、と何となく思う。そもそも、承認欲求だとか自己実現のためだとかいうと、内的な目的が先立つ印象があるけれども、それは利他的行為に関するいやらしさを受け止められないひねくれた人の言葉なのかもしれないし、素直でないのは僕なんじゃないのかね、という話になってくる。そうなると、僕ひとり素直でなくて、仕事に没入できないシニカルで浅薄な人間みたいで、ちょっとばかし哀しい。

 利他的な行為に関して、ハミルトン則というものがある。大学の一般教養はほとんど出席していなかったのだが、この話だけ何となく覚えている。自分で説明するのも面倒なのでwikipediaからちょこちょこ引用していく。この話のためには、まず血縁度について説明しなくてはならない。「ある個体が稀な遺伝子Aを1つだけ(ヘテロで)持つとする。有性生殖によって、子には半分の遺伝子だけが伝わるので、その子が同じくAを持つ確率は0.5である。」この時に「親からみた子の血縁度は0.5となる。」といった感じで、血縁度を計算し、この血縁度や個体数が自分の生命やその危機の可能性の大小を考えて、利益の大きい動きをする、といったようなものである。これが実際どの程度正しいのかは知らないけれど、真に優しい人が自分が真に優しい人間であると表明することよりも、よほど確からしいように感じてしまって、まったく自然科学的ではないのだけれど、何の批判的検証やその批判的吟味もしていないのに、何となく信じている。だから、これは僕にとって一種の宗教に他ならない。正しさを批判的に吟味していないのに気分の問題から信じてしまうものは決して自然科学ではなく、むしろ宗教の領域に近い。

 結局のところ、やさしさの表明に僕は耐えられないだけなんだ。それはきっと今まで誰かのやさしさに背負われて社会生活を送ってきたことを、その人の純粋な優しさからではなく、何かしら優しさ以外にそうせざるを得なかった理由から説明したいことの裏返しなのかもしれない。それってなんだか意地が悪いような気がするな。

 やさしさの理由は何でもいいけれど、僕も僕なりに愛ある診療ができたらなと思うし、なんか上司に無茶ぶりされた症例報告をこんな時間まで休みの日で明日当直だというのに病院で書いていた。たまには僕も優しさを。

 

追記

なぜか日記のタイトルに見覚えがあるなと考えていたら、イーガンの短編小説に「幸せの理由」というものがあったからだと思い出した。面白かったはずなので気が向いた方は是非。