ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

生活について

「20代半ばにしてすでに痛風とは、いったいどんな生活をしているんだい、君は」

忘年会シーズンが来た。一杯目を生ビールではなく、ハイボールを注文すると大抵「あれ生じゃないのかい」と訊かれる。「ええ、自分痛風もちなんですよ」と答えると冒頭の疑問文を投げかけられることが多い。

生活が限界だ、と日々言われるし、自分でもそのつもりでいる。洗濯物をたたむという概念を持たないこと、そのために洗濯した洋服は地面にしわにならないように置いておくよりほかにないこと、トイレの掃除用具がないので便座の黒ずみを取りたくても取れないこと、二日酔いで汚い便座に顔をうずめてそこから動けない日があること、ベッドに住み着いた陰毛を夜間にむしり取る妖怪を退治することができないくせに布団周りを掃除するコロコロもレオパレスにはおいていないこと、そもそもフローリングじゃないのに掃除用具といえばクイックルワイパーのみで小汚い絨毯はなるべく見ないようにするほか手がないこと、朝にエアコンが切れて寒いとわかっているのに、いつもヒートテック一枚で寝てしまうこと、夜にスーパーが閉まった時間に家に帰って検食だけではどうにも胃の中がさみしい時にセブンイレブンで買うワンカップの菊正宗とセブンプレミアムの鯖水煮缶をワンコインで買える幸せと命名したこと。えとせとら。

日々のあらゆる出来事が、明確かつ雄弁に私の生活の限界を物語っている。

 

と思っていた。けれども別にそんなことは実際ない。僕は幸せに日々を生きていた大学生のころですら、乾いた洗濯物は床に投げていたし、友達からもらった柿をありがとうと言ってテレビ台の上に置いて常温で干し柿に似た何かを生成した。極めつけは解剖実習をやっていたころの話である。蒸した六月くらいになると、御献体にもカビが生えてくる。しろいほわほわとしたカビに悩まされながら、時にフェノールか何かで御献体を清めることになる。夏が近くなると、カレーを食べたくなる。しかし、カレーは二人前だけつくることは困難で、なかなか一回では食べきれない。そのうち、鍋においていたカレーが糸をひくようになったが何となく気にせず食べていた。そのあとさすがにまずいかなとタッパーにうつしたカレーを後日みてみたら見覚えのある白いほわほわとした物体がカレーを覆っていた。

僕は以前から生活に必要なありとあらゆることを放棄していた。

狭義の生活(≃衣食住)に関する意味付けは、その生活の外側の生活によって輪郭を得て意味付けがなされる。世話を焼いてくれる女の子と生きているなら限界な生活も限界でない意味付けがされる。

何だか僕はあたかも喪失体験によって生活が限界になっているというような誤った物語を受け入れそうになっていた。けれども、僕の生活は以前と何も変わっていない。隣の部屋に住む陰茎とイスラム系テロリストを足して2で割ったような深い教養を備えたおっさんにはずっと前から30代で死ぬことを予言されていたのだった。僕自身も別に何も変わっていないということに気が付いて、生活の意味付けが更新される。

今日も生活を放棄して映画を見に行き、ネパール料理でも食べることにする。