ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

丘の向こう、海の見えるところ

 日当直で柏崎に来ている。内陸地での暮らしが長いこともあって海が近いとそれだけで旅行気分になってしまう。病院自体は忙しくない。本当に夜間に入院患者さんの具合が悪い時に少し呼ばれて指示を変えたりするだけ。一応急性期病院なので、稀に脳卒中が来たりするが幸いにも僕がいる時には重症患者はまだ来ていない。穏やかな当直は良い。近くに海があるのも素敵だし、帰りに海鮮丼を食べるのも良いかな、とか。

*********************

 公衆の面前で何かを発信する際にはポジティブな内容でなければならないという社会的な無意識下の圧力は、Facebookを眺めている時に強く感じられる。タイムラインを流れてくるのは子供の写真と結婚の報告、あとは意識の高い人々が仕事で何かを成し遂げた報告などがメインだ。そういう“芸風”が求められている。

 逃げ恥がプライムビデオで視聴可能になった。就活失敗して軽度のこじらせのある美女が住み込みで恋愛における自己肯定感が極めて低いシステムエンジニアであるアラサー男性の住み込み家事代行サービスを始めるうちに契約結婚をした方がお互いの利になるのでは、となって……という話である。

 結婚式に参加している時には色々考えてしまう。結婚式自体は楽しい、めでたいし、学生時代の友人とも会えるし、表に出せる範囲内で生育歴も見られて、そうか彼/彼女の人格はこの家庭ではぐくまれたのだな、などと興味深さを感じてみたりする。また、以前の記事にも書いたけれども、いつも泣くのは新婦の父親で、これは文化に依存するのだろうか、というのもなかなか興味深いテーマである。もし文化に依存しないとしたら他の類人猿でも同様の感情の揺らぎが観測されるのだろうか。また「娘さんをください」的な文化=嫁に行くという文化はどこから生まれたのだろうか、などと考えていてチンパンジーの生殖についてふと思い出したことがあった。ーチンパンジーのメスは生殖可能な年齢になると自分の所属する集団を離れて別の集団に行くので嫁に行く。なのでこの嫁が移動するという概念はヒトがヒトである前から存在しているのかもしれない。娘さんはモノではないのにくださいというのはおかしいという論調は、よく教育された現代人の思想として非の打ちどころがない。しかしこれは実は進化的経緯から必然的に生まれた表現なのではないだろうか。

 比較文化人類でよく近親婚を避ける話について論じられるのを見かける。例えば、私は男性なので、私から見た母の男性(母と性別が異なる)兄弟(叔父・伯父)の娘との結婚は母方交叉いとこ婚と呼ばれて父系制社会では優先されることが多い、といったものだ。このあたりの話はいつも本を読もうとすると家系図を読むのが面倒になってしまってきちんと理解していないのだが、結局これらの規範によって女性が交換されることになって遺伝子プールの多様性が保たれるということになり、この辺りはチンパンジーと地続きでとらえやすい。

 そういえば、配偶システムについてはあまり勉強したことがなかった。以前に「少女は自転車に乗って」というサウジアラビアの映画を観た。これはサウジアラビアで初めての女性監督の撮影した映画で、コーランの暗唱をプレイステーションで勉強している姿や、主人公の少女の母親が出産をもうしたくないと言っていたら新しい婦人を夫が作ってしまって泣きながら結婚式をベランダから眺めるシーンが少女の視点から描かれていて面白かった。そうだ、ヒトは別に一夫一妻制を採っているわけではないのだった。一夫一妻と一夫多妻制について調べるとアフリカ諸国とイスラム圏では一夫多妻制が多い傾向であった。ベイトマンの定理という理論を見つけた。これは僕がマッチングアプリ界隈で若いメスが異様に尊大であることの説明をする際に言っていることと概ね同じ内容でメチャクチャ笑った。メスの方が繁殖コストが高いので若いメスは希少資源となるという話だ。潜在的繁殖速度(単位時間あたりでどれだけの子孫を残せるかという速度)における性別間の不均衡は厳然とヒトにおいて存在しているわけで(子育てに全く関与しないオスがめちゃくちゃにモテるなら1日数人を妊娠させることができるが、女性はどんなにモテてもそれは不可能だから)女性は相手の男性を慎重に選ぶのだ。(もちろんこの結果として、生殖へのハードルが上がった結果、エッチできそうな女性の価値が逆説的に高まるということはあるはずだ。そういう女子大生も遺伝子的に勝ち残るためにそういう選択をしているのだと思っている。)そのような種では一夫一妻制の方が良いらしい。たしかにお互いに生殖へのハードルは高くなっていって、子育てに要する資源や時間が多いので、相当な量の富が集中していない限りなかなか一夫多妻制はヒトのような種族では難しいようだ。貧富の格差と一夫一妻制の採用が相関しているという仮説を立てて少しググってみたのだが、そのような記事は出てこなかった。潜在的繁殖速度で説明が可能だろうと思われるこの手の話は多くの人がモヤつくみたいで、偶然にネットでこんな記事をみつけた。課金してないので最後まで読めていないが、同じモヤモヤを抱えていそうな人だなと。

https://note.com/wakari_te/n/nd11b73beb8b7

 『逃げ恥』は視点をよく意識させられる物語だ。主人公のみくりは何かある度に脳内で情熱大陸をかけて自分を客観的に見つめる。物語(コンテンツ)の物語性(コンテンツ性)は視点にある。映画『ボーダーライン』を観ていて息苦しいのは、視点が主人公にくっついているからだ。フィクションだけれども、メキシコのマフィアならこういうのが普通にありそうみたいな妙な説得感は物語らしくなさから生まれるのだと思う。ブログを書くのも人生のコンテンツ化だ。僕は結局のところ自分の人生をフルに自分の視点で感じられるほどに成熟していない。理解可能な断片に分解しきっていって、さらにそれを他人視点で語らないと自分の生について考察できない。いや、そもそも考察することが正しくないという説もあるのだが……。

 都市部の洗練された実家の太いマトモな家族を持つ人々が、いっぱしに悩んでいるのを見てモヤつく時、私は一体何と戦っているのだろう。その負の感情だけが、私を当直バイトに、投資に駆り立てている。何者にもなれないのは別に良いと思っている。きっとライフステージの変化とともに、だれかにとっての何者かになれればそれで解消されるものだからだ。ただこのどうにもならない劣等感と怨恨は一体何なのだ。満たされない恋愛経験であったり、安定した収入のアピールからしか生殖相手としての自分のPRができないことへの悲しさだったり、そういうところなのだろうか。

 “ライフステージは不変なのに、年齢で芸風を変えろと言われるのはしんどい”(大意)というセリフをTwitterで見かけた。そうだわたしはずっとここでウジウジしている。いつまでも芸風は変わらない。私は永遠にTwitterとブログの住人をしている。

*********************

 帰りに海を見に行った。なぜか胃袋が海鮮ではなくコメダ珈琲のカツカリーパンを求めていて、コメダ珈琲に向かうカーブを間違って公園の駐車場に出た。丘の向こうに広がる砂浜と日本海の夕焼けがきれい。景色が良くて、満足。坂を降りて海岸まで行った。分解された個々に大きな意味がないことは、総体として重要でないということを意味しない。論理的な正当性の丘の向こう側に幸福がある気もする。日本海にタッチして、カツカリーパンを食べて、お家に帰った。

f:id:butabiyori:20200830223732j:image