ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

しらないまちへ

 ワンマン電車の信越線が長岡をすぎると少しずつ家より田圃が多くなり、さらに行くと山がちになってそのうち田圃すら少なくなっていく。6月初めの透き通った風を受けてひらひら揺れる小さな稲たちが涼しげで、うとうとしながら初めて乗る路線の車窓を流れる景色を眺めていた。

 この外勤先の街自体に来たことが1回しかない。家から150kmも離れている。来たことがあると言っても谷村美術館に行った時に通ったことがあったような、なかったような、コンビニくらいは寄った気がするな、くらい。あとガソリンスタンドのおねえさんが可愛くて鼻の下を3メートルくらいに伸ばしたのもこの辺りだったような気がするが何年も前の話で定かではない。

  電車にはさわやか男子高校生たちが部活帰りじみた格好で群れて乗っていた。人生楽しそうで何よりである。僕が高校生の時といえば、18歳になったからと高校近くの本屋さんで堂々とエッチな本を立ち読みしていたら店員さんに高校生は成人コーナー立ち入り禁止です、などと言われて怒られていたように思う。18歳であることを力説したがダメだった。この差はどこから来るのだ。その謎を確かめるために僕はニーガタに向かった……。

 

  まともな人のまとも性みたいなものにすごい弱くて、車の中で文字の多いマンガ本を読んだ時のような気分になってしまう。親しき仲でもパンツ履け、という話は尤もで、確かに一々わかり切っているあなたの非まとも性について説明されても、もうお腹いっぱいだし、もういいんで早くパンツ履いてそのくさそうなブツをどっかにやってください、とそうなるに違いない、違いないことは分かるのだけれども、クソにシャネルの5番をふりかけたようなまとも性はやっぱり苦手。

 地元に帰ってきて3年目になるので、さすがにチラホラ知り合いだとか僕を知っている学校の先生に病院で出くわすことがでてきた。そんなことがあるたびに、中学校の頃に先生からいい子と言われていた子が認知症の祖母から毎月のように新年と勘違いさせてお年玉をもらっていたなとか、親に虐待されててお風呂に入れてもらえない同級生をみんなが臭いと言っていたけど特に誰も止めなかったなとか、その子がドチャクソ大きな口を開けた時にふと閃いて固めた乾いた木工ボンドを口にめがけてデコピンしたら入ってしまいご本人と先生にすごい怒られたなとか、福耳の同級生の耳たぶを引っ張ったらいつか肩につくのではと思いついたので連日願いして毎日耳をひっぱらせてもらってたなとか(しばらくすると耳たぶを肩までくっつけようとしている作戦がばれて猛烈に嫌がられてしまったので作戦は立ち消えになった)、僕が学校に忘れてきた帽子を猫の死体の上に載せて遊んでいたことを学校の先生に指摘されて泣いていたさわやか優等生イケメンがいて、彼もこれだけ反省しているんだから許さないという手はないでしょうと担任に圧力をかけられたなとか(僕は全く許していないかったようで大人になってから一緒に飲んだ時に、僕は泥酔しながらその時大晦日のテレビで放送されていたリゴンドーがボクシングで相手をボコボコにしてるのをみてテンション上げた状態で彼に渾身の中段突を放ったところ倒したは良いのだが極真空手の黒帯の人に上段突されて止められた、僕の方がずっと重傷、何かがおかしい)、僕が勉強を教えてあげていた子たちは通知表が僕よりずっと良かったなとか。そんな記憶の断片が蘇ってくる。

 なんだかさわやか優等生タイプへの怨念がすごい。そういう人たちが女の子とすけべした後やシュラスコでタンパク負荷を沢山して死ぬほど臭い屁などを尻からだしながら、まともなことを話したり内省の乏しさから他人に対してのみ本気で義憤に駆られたりするのを想像すると論理的一貫性がないような気がしてゲンナリしてしまう。いや、でも僕に耳たぶ伸ばされてた子もひょっとしたらいじめられていたと認識しているかもしれない。他人にばかり内省を求める客観的視点のない人間のことが嫌いなのは自分がまさにそういう人間だからなんじゃないか。そんな説もある。諸説あり。

 なんにせよ、これらの薄暗い気持ちからファッション発達圏の人をやっていた(これ現在完了のつもりなんですが日本語で現在完了使いたい時って過去形と区別できないですよね欠陥?)つもりがいつからかどこまでがネタでどこまでが僕自身なのかよく分からなくなってしまった。まともさからの逃避としてのファッション発達圏がより重度の発達マンを侮蔑し、わたし自身の幸せをも阻害している。諸悪の根源だ、これに諸説はない。

 

 高校生たちは名前も知らない駅でぽつりぽつりと降りていった。電車のドアが開くたびに涼しい風が車内を吹き抜ける。あのドアの向こうは僕の行き場じゃないなと思ってすこしさみしいような気持ちがした。田圃のきれいな風景は窓の向こうにあるものであって、どこまでも外からの観賞用で、銀幕の上の青春と同様にわたし自身の物語とはなり得ないのである。