ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

なってしまう話

「先生は外科になるんですか?」飲み会の翌朝、無心で処置のための回診車をきいこきいこ引っ張りながら病棟を歩いているとそう訊かれた。「いや、何だか総合診療医になるみたいですよ、わたし」「へえ」

最近受ける質問のほとんどは、「街コンってどうなんですか」か「外科志望なんですか」のいずれかである。みんな限定された興味の中を生きているのか、特に仲良くないアラサーの職場のオッサンに掛ける声と言えば現実的そのくらいしかないということなのか、僕にはどっちなのかよくわからない。ちなみに外科ローテ中のため、外科志望な訊かれるのであって、循環器内科を回っているときには、循環器内科志望なのかと訊かれた。

なってしまいました、の言い回しを多用しており、含みがあると受け取られることが多い。整形外科入局するする詐欺事件の影響も否定できないが、整形外科入局コースを選んだとしても、なってしまいました、と僕は話すに違いない。

ところで昨晩は飲み会(丸の内OLの”丸の内性”はOLの中に存するのか、土地に存するのかという話、つまり僕が丸の内OLと結婚して、その女性がコンニャクイモ農家でアルバイトを始めたら、それは丸の内OL性を喪失したことになるのか、それとも会話の端々ににじみ出ていればそれはそれでありなのか、あるいは仕事を遠隔で行ってOLであり続けるのだとしたら……といった話をしていたら終わっていた、非生産的でない話すぎて、あやうく脱糞してしまいそうになるけれど、生産性のない寄り道の中にこそ価値を求めていきたい)だった、ちなみに今日も飲み会(先日の街コン地獄篇の後日談―どうやら僕の友人は例の女性とデートしたらしい―について聞く会)である。最近も週に2日の休肝日は当直のおかげで何とかもうけることに成功しているが、基本的にそのほかは連日飲酒している。忘年会シーズンであることはあまり関係ない。飲み会がなくても、セブンイレブン鯖缶とワンカップの菊正宗樽酒本醸造、菊水ふなぐち生原酒、キリン一番搾りのいずれかを購入して飲んでいる。学生の頃から晩酌の習慣がある。理由はよくわからない。何かをするには根拠がなくてはいけないから、それっぽい理由をこじつけて色々考えてみるのだが、結局のところよくわからない、というのが本当のところである。

自分の行為に関しては説明可能性を信じているので、何かを意識的にするためにはそれが最善手であることを証明する必要がある。(酒については仕方ない。uncontrolableな飲酒欲求は病的なので僕の意識を離れているから、そこに最善手もクソもない。病気は病気だ。)

後期研修どうするの?

という問いに関しても同様で、これに対して解答を出すためには、僕はすべての可能性を列挙して、収入・QOL・人間関係・学問的興味・将来性等、それぞれを点数化して、何を重視したいのかで傾斜配点をつけて点数の最大化を目指さなくてはならない。

けれども結局そんなことは不可能で、特に将来どうなるのみたいな話については、95%信頼区間をおくと、たぶん幅が広すぎて、有意差が付かない。症例数が少ないと信頼区間の幅が広がってしまうのだから、まだ誰も僕の未来の人生を生きていない、n=0の臨床研究ともなれば当たり前である。

最善手を選べない時はサイコロを振るほかない。本物のサイコロで決めようかなとも思ったが、さすがに人生をなめすぎているので、押しの強かったところに流れるという、象徴的サイコロ振りで将来を決めることにした。

予測できないものについて、自分の判断ができないことから、自分の判断ではないニュアンスを出すために「なってしまいました」のフレーズを頻用している。そんなニュアンスを出そうが出すまいが、サイコロを振る決定をした時点でその結果の責任を僕自身が負うほかないのだから、これは大層イケてない。

よくわからないことに関しての付き合い方が苦手です。そのくせ患者家族への病状説明においては病状や検査の不確実性について理解を得られないと、あんまりいい気分がしない。ヒトサマのことだから、いいように言えるんだよなとも思う。

最善手はわからないけれども、不確実性を受け入れることについては、自分の判断です、と言える方が人生楽しそう。自分の人生にもう少し責任感を持って日々を生きたい。投げやりで斜に構えていて許されるのは高校生くらいまでですよね。ということで、明日はもう少し元気に回診車を引っ張ろうね、ぼく。

街コン:地獄篇

introduction

街コンについては先日記事に書いた通りである。私は絶えず尿意の話をして、五苓散をビールとともに飲んで女性陣をドン引きさせた。帰り道、落ち葉の舞う駅から家までの7kmを歩きながらなぜ自分はこんなことをしているんだろうとひどく悲しい気持ちになった。冷えた空気に夜空は澄んで冬の星々がきれいだった。

自然科学にかかわるものの端くれとして、やはり実験は一度だけで終わってはならない。再現性を追求したり、改善点について仮説をたてて検証することが大切であるし、そうするように教育されてきた。私は私の受けてきた教育を裏切らない。

さて、反省点は複数ある。まず、単騎参加であったこと。これにより、知らないオッサンとペアを組まされゲイっぽさを演出してびびらせることに成功したが、そんな生産性のないことやっていてはいけない。最終的なアウトカムは美少女と交際することである、そんなくだらない遊びに成功したところでプライマリーアウトカムに何ら貢献しない。

次に、男性参加者の年収が300万円以上であったことである。年収が参加条件に組み入れられている方が、男性もそれなりに落ち着いた人が来るだろうし、女性側もそれなりに安定した男性を望んでいると予想したからだ。けれども300以上では僕の強みを生かせない。僕の強みは生涯年収の期待値である。したがって、収入についてより厳しい参加条件の街コンを検索することとした。以上二つを持って臨むことで、より実りある臨床試験が組めそうである。

methods

僕は近所で働く、学生時代に彼女に振られてから(振ってから?)浮ついた話がなく、ICLSコースで仲良くなった熟女が子持ち人妻だったことに落ち込んでいた研修医氏に声をかけることにした。これでファーストステップはクリアである。次に、条件にあった街コンの検索をしなくてはならない。11月から12月にかけて行われる近場の街コンのうち、最も収入の条件が厳しいものを選択して参加申し込みを行った。この時点で参加番号1番であり、このことは参加者が少ないことを示唆するのでまた失望しかけてしまったが、街コンというものは大人数で飲むものではない、と前回知ったので、そこまで残念な気持ちにはならずに済んだ。経験は大切である。

result

決戦の日、集合の2時間前に集合してスパゲッティランチをほおばりながら、作戦を練る。「職業の欄どうする?」「医療関係と書くのが無難なんじゃないかな」「かわいい子いなかったらどうする?」「ゲイの設定でお互いに指名しあって、カップル成立です、とやってビビらせてやろう」「かわいい子とうまくいったら?」「反省会はなし、そのまま女の子と飲みに行こうじゃないか、4人でも良いし何なら解散して各自でも……」「ところで場所だけど」「場所」「これ飯屋とか居酒屋じゃなくて会議室だと」「かいぎしつ」「よく見ると、婚活って書いてある」「こんかつ」「これはガチなやつでは」「がちなやつ」

小学生時代にポケモンをやっていたころ、四天王戦などで負けると目の前が真っ白になったと表示された。そういう比喩があるんだなと思った。そして所持金は半額になる。そして今日、スパゲッティランチをほおばる僕の顔から血の気が引いていく、比喩でなく目の前が真っ白になる。財布を確認するが所持金は減っていない。なんだか周囲の世界に現実感がない。僕は一体どうなるんだ……。

震える手でザ・ビートルちゃんのハンドルを握り指定された会場につくと一階では何かのイベントが行われており、気が狂うほどの大音量で音楽が流れている。椅子が置かれているが、数人が耳を傾けているだけで、他の人は目もくれず足早にエレベータに乗っていく。この場にいると、うるさくて会話もままならないし、何だか焦燥感に駆られてよくない。会議室は4階である。僕もエレベータのボタンを連打して、会場に急ぐ。

エレベーターを降りてもなお、4階なのに1階からの音楽がくぐもった音で聞こえてくる。何だかメンタルがよくない。隣の研修医氏の顔も青白く、瞳孔は大きく、呼吸は早く、不穏である。カテコラミンリリースだ。この段階でqSOFA2項目陽性なのでとりあえず血培を2setとった方が良い。(ちなみに感染を疑った時にqSOFAを使うのであって、婚活パーティーに間違ってきてしまった人に対してqSOFA陽性なのでというのは当然クソだね、これ国試出るからね)

「とりあえず、まだ時間が30分ある、とりあえず様子見といこうじゃないか」エレベーターホールから少し離れて、会場へと向かう人の流れが見える場所に陣取る。さて、どんな人が一体参加するんだい。

明らかに50歳近いおばさんが一人、まさか参加者ではなかろう、えっ、いや、入った、入ったぞ、きっと運営側だよね。30代ほどの雪だるまにそっくりなおねえさんが一人、これは参加者に違いなかろう。20代ほどのそこまできれいじゃないけれど、まあ普通のお姉さん、40代くらいの白髪交じりのおっさん、50代近そうな坊主頭のオッサン、あああ。心を決めよう、いつまで待っても状況が好転するとは思えない。何だか体調が悪くなってきた。空間全体がここはお前の居場所じゃない、という敵意を持ったメッセージを明確に発している。空間が敵意を持つ瞬間が存在するなんて、僕はこの時まで考えたこともなかった。

意を決して、受付にいくとおばさんにプロフィールシートを渡された。「年収の明記された紙か社員証はお持ちですか?」「ないですが、名前ネットで検索すると僕の名前日本に一人しかいないのですぐ特定できるし職業も所属も一発でわかります」「いえ、社員証をお持ちいただかないと」わたしは重度のADHD氏なので、社員証が必要なことなんて知らなかった。隣の研修医氏はすっと取り出してOKをもらっていた。健常人すごいな。仕方ないので医籍の番号を教えてOKしてもらった。厚労省ウェブページで探してください。

中に入ると、何というか、こう、空気の密度が高い。高圧酸素室に入った時でも感じなかった感覚である。一呼吸ごとに肺に重苦しくのしかかるこの空気は何だ。参加者たちはみな窓の外を見つめたり、携帯をいじったりして、落ち着かない様子である。だれも、お互いに会話しようとしない。異様な空間である。

参加者は10人だった。ドタキャンが2人いたらしい。重苦しい空気の中プロフィールシートを埋めていく。職業、医療関係、年収うん百マン、好きな映画GATACA、リベリオンザ・レイド、アジョシ、最近みた映画、カメラを止めるな、趣味、映画鑑賞、トレッキング、スキー、休日、日曜日、理想の女性、知的で食事の趣味が合う人。準備は万端である。この段階で周囲を見てみると、20代かなと思える人は僕ら2人を除くと女性2人だけだった。うへえ。15時となった。

時は来たれり。心の中で開戦の銅鑼が鳴り、不自然なほど突然に同時に部屋中で会話が始まる。5人の女性と順番に話していく。

①40歳 女性

主訴:結婚はいい人がいたらしたい。

へえそうですか、と相槌を打って終了。

重症感あり当院での加療は困難と判断。

転院搬送の方針とした。

②30代 女性

主訴:結婚はいい人がいたらしたい。

全身外観:雪だるまに似ている。

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精神的に明らかな問題は感じないが、出会いがないのは全身外観の問題であろう。職場のせいにしてはいけない。帰宅、有事再診。

③20代女性

主訴:結婚はいい人がいたらしたい。

全身外観:目じりが紫色

何となく紫色っぽかったのでチアノーゼ性先天性心疾患でもあるのかと思ったが、唇とかの色は正常。地銀で働いているとのこと。精神的にも普通で、明らかな発達の異常はなさそう。容姿も普通。ボードが好き。

年齢も近いので、気が向いたら再診を。

 

③30代半ば女性

主訴:そろそろ結婚したい。

全身外観:子持ち人妻感がある。

趣味は洋服づくり、研究職らしい。

当科的に加療する適応はないかと思います。

貴科での治療を継続していただけたら幸いです。

 

④40代半ば女性

主訴:切実に結婚したい

全身外観:魔物

精査希望とのことでご紹介いただきましたが、全身状態不良であり、いずれにせよ根本的治療が難しいから精査の意義に乏しいと思われます。また、ご本人のことを考えても、判断力が正常なうちにご家族と今後の方針を話合うべきかと思いますが、いずれにせよ緩和的治療が主体になるかと思われます。また何かあった際にはご紹介いただければと存じます。この度は患者様をご紹介いただきありがとうございました。

⑤30歳 女性

主訴:結婚って何なんでしょう

全身外観:明らかなmental statusの異常を感じるが、普通にかわいい

平素よりお世話になっております。性格は自由とのことですが、自由と何かをはき違えているのではないでしょうか。脊椎疾患が併存症にあり仕事を休みがちなせいで、辞職に追い込まれたとのことですが、本当にそれだけでしょうか。いずれにせよ、原疾患のコントロールが不良であり、入院での加療が困難な状況です。入院可能な状態になりましたら再度ご紹介いただければと存じます。この度は患者様をご紹介いただきありがとうございました。

 

会話が終わると第2希望までの人に脈ありカードを書けと言われた。紫おめめとメンヘラ自由ちゃんにとりあえず送ったが、メッセージは何を書いたらいいなよくわからず、先っぽだけでもどうですか、と書こうと思ったけれど、訴えられたら普通に負けるのでやめた。何も書かずに番号だけ書いて提出。

5分ほど待たされると、女性からの脈ありカードがやってくる。魔物と雪だるまと紫おめめの3人からもらった。マトモなフリをするとどうやら女性への印象が悪くないらしい。へえ、やっぱり初対面でちんぽサイズの話はしない方がいいんだ。勉強になります。

しかし最後にもう一周全員と話すことになっている。とはいえ、先ほどの一周でわしは治療方針を決めている。再診しなくて良い人ばかりである。紫おめめは有事再診を指示してあり、わしの再診希望だったので普通に再診した。他は疲れるので普段の初診外来の気分で無のまま終わらせた。メンヘラ自由ちゃんはカード5枚もらっていたので、モテモテであった。

最後に第三希望までを書かされる。最大多数の最大幸福となるように主催者がそのカードを見て、カップルを発表する。僕は3人どう考えても選べないので、紫おめめとメンヘラちゃんだけにしておいた。

 

結局、僕の友人は30代半ば人妻風、洋服づくりの人とカップル成立になっていた。僕は収穫なし。メンヘラちゃん自身がたぶん誰をも第一希望に書いていなかったのだと思う、最後となりの席だったのだが誰とも成立せずに「結婚とは?」とこちらに訊きながら部屋を去っていった。紫おめめは謎の30代半ばのオッサンとカップルになって部屋を出ていった。ふうん、と思いながら一階に降りた、音楽会はとうに終わったようで、静かなロビーになっている。トイレの前でうんこでもして時間つぶすかなと思って待っていたら、連れから「第3希望まで書かないといけないっていうから、残り若い二人の他にはあの人しかいなくって書いてみたけれど、うわあ」とラインが来ていた。強く生きてほしい。二次会にはいかなかったようで、一階のトイレ前で落ち合って反省会をすることにした。

会場近くにある肉バルに行くはずが日曜日だったせいで定休日だった。仕方なく、大学病院近くにあるマイナーな定食屋でビールとカキフライと餃子を食べた。店主のおっさんは料理をつくり終わるとこたつに入って煙草をふかし始めた。カキフライはおいしいかった。まわりの世界がゆっくりと現実味を帯びてくる。リアルなたばこの香り、リアルなカキフライのおいしさ、のどを流れるビールのつめたさ。きっと僕は婚活パーティーというこの世とあの世の境目みたいなところに魂だけになって行っていたんだと思う。あれは一種の臨死体験だった。もう当分やらなくていいかなと思う。反省会の結論は好みの子がいないなら、何を言われても希望人数を埋めないでカードを提出する、に決まった。宗教的体験をしたのにも関わらず、得られた教訓はあきれるほどに世俗的で何だか悲しい。

婚活地獄めぐりを経た私は少し立派になれただろうかと自分に問いかけながら、おいしく男二人でビールをのんで二次会もせずに夜は八時に床に就いた。

Discussion

婚活パーティーが地獄めいていたのは、参加者が地獄の住人めいていたからに他ならない。誰からも愛されない自分、という救いのない思いを窯で極限まで煮詰めたどろどろとした精神が、肉体にまでじわじわとしみこんでいくと、あのような表情、顔かたちになっていくのだろう。私ひとり、まるで冷やかし参加かのように、この地獄から遠ざかって無関係の観測者ぶることは許されない。私もまた一呼吸ごとに自らの愛されなさを見つめて、煮詰めて、煮詰めて、少しずつドロドロとした魔物に近づいていくのを感じている。私が生きているのは本当に現実なんだろうか。

 

君がウキウキしてるのは

どうしてもテンションの上がらない時がある。さすがに人前に出てずっと苦虫を噛み潰したような顔しているほど不躾ではないので、誰かと話していればなんとなく型通りにニコニコして、そのうち自分の表情に引きずられて気分が回復してくるのだが、誰にも会わない休日の朝のふとんの中でテンションが下がるとキツイ。先週の日曜日がそんな朝だった。気分の上がらない時は体を動かすと良いことがn=1の観察研究(つまりわたしの経験上)で明らかになっているから、朝から近所を走ることにした。

川沿いに朝靄が立ち上る河岸段丘を下へ下へと降りていく。走る時は何も考えないでいることができる。性格の問題なのか、何なのか分からないけれど、常に何かを考えがちで疲れてしまう。

つい先程、セブンイレブンのホットコーヒーの抽出を待っていたら、クリスマスツリーの横でやたらと楽しそうにしている3歳くらいの少年がいて、暖かい気持ちになった。クリスマスが近いとウキウキするよね。いや本当にクリスマスが近いから彼がウキウキしてるのかどうかは分からんけれど。そもそも自分自身に関してすら、クリスマスが近いとわけもなく小さい頃の記憶を思い出してかウキウキする、ということが本当に正しいのかどうかよく分からないもんね。

いつの頃からか分からないが、気づいた時には感情には理由があるという信仰を持つようになっていた。ひょっとしたら国語教育のせいかもしれない。暗い空から雨が降って傘もささずに俯いている男の子がさっき友達のプラモデルを壊してしまったのだとしたら、それは罪の意識を感じているからだと答える必要がある。でも、ほんとはそんなこと関係なく本当にわけもなく泣きたい気持ちになっているだけかもしれない。

余りに日々に溶け込んでいるからこの宗教の存在に気がつくこともあまりない。時々説明できない感情の動きをなんとか説明しようとする時にこの問題にぶち当たる。ひょっとしたら、僕はわけもなく悲しくなり、わけもなく楽しくなっていて、そこに常に尤もらしい理由づけをしているだけなのではないか。

そこに感情の動きがあるなら、その成因が論理的に説明できるはずだという主張をする説明的感情成因論原理主義者とでも言えるグループの一員に気がついたらなっていた。そして非常に説明的な人間になり、物語も詩歌も説明され尽くされなくてはいけないような気がしてしまい、しかし説明され尽くされてしまうものは作品としていただけない、と言うダブルスタンダードを身につけてしまった。なにそれきもい。

強迫性障害の人が家の鍵をしめる確認をしないことでどうなるのか、現実的にそれはどのくらいのリスクなのか、そしてその論理的に正しいリスクを非論理的なあなたはどの程度信頼することができて、そこにどのくらいの認知の歪みがあるのか、といった話をされながら治療していくように、僕自身も自分の不快な感情に対して論理的な説明を与えることで解決を図ろうとしているのかもしれない。

けれどもそんな試みは大抵成功しなくて、結局走ったり筋トレしたりしてた方が気分の調子が良かったりする。テンションの上がらない理由が分からないことにまあそういう日もあるよねと朝日を浴びながら川沿いを走ってるとだんだんと朝靄が晴れて、気分も良くなってきた。いいぞ、これだ、思考を放棄して楽しくなるぞー!! ポカポカしてきて、明るくて気持ちいいねえ、これは高照度光療法だ。季節性感情障害にエビデンスがある。

また説明してしまった。説明的感情成因論原理主義者からの脱却への道は遠い。

生活について

「20代半ばにしてすでに痛風とは、いったいどんな生活をしているんだい、君は」

忘年会シーズンが来た。一杯目を生ビールではなく、ハイボールを注文すると大抵「あれ生じゃないのかい」と訊かれる。「ええ、自分痛風もちなんですよ」と答えると冒頭の疑問文を投げかけられることが多い。

生活が限界だ、と日々言われるし、自分でもそのつもりでいる。洗濯物をたたむという概念を持たないこと、そのために洗濯した洋服は地面にしわにならないように置いておくよりほかにないこと、トイレの掃除用具がないので便座の黒ずみを取りたくても取れないこと、二日酔いで汚い便座に顔をうずめてそこから動けない日があること、ベッドに住み着いた陰毛を夜間にむしり取る妖怪を退治することができないくせに布団周りを掃除するコロコロもレオパレスにはおいていないこと、そもそもフローリングじゃないのに掃除用具といえばクイックルワイパーのみで小汚い絨毯はなるべく見ないようにするほか手がないこと、朝にエアコンが切れて寒いとわかっているのに、いつもヒートテック一枚で寝てしまうこと、夜にスーパーが閉まった時間に家に帰って検食だけではどうにも胃の中がさみしい時にセブンイレブンで買うワンカップの菊正宗とセブンプレミアムの鯖水煮缶をワンコインで買える幸せと命名したこと。えとせとら。

日々のあらゆる出来事が、明確かつ雄弁に私の生活の限界を物語っている。

 

と思っていた。けれども別にそんなことは実際ない。僕は幸せに日々を生きていた大学生のころですら、乾いた洗濯物は床に投げていたし、友達からもらった柿をありがとうと言ってテレビ台の上に置いて常温で干し柿に似た何かを生成した。極めつけは解剖実習をやっていたころの話である。蒸した六月くらいになると、御献体にもカビが生えてくる。しろいほわほわとしたカビに悩まされながら、時にフェノールか何かで御献体を清めることになる。夏が近くなると、カレーを食べたくなる。しかし、カレーは二人前だけつくることは困難で、なかなか一回では食べきれない。そのうち、鍋においていたカレーが糸をひくようになったが何となく気にせず食べていた。そのあとさすがにまずいかなとタッパーにうつしたカレーを後日みてみたら見覚えのある白いほわほわとした物体がカレーを覆っていた。

僕は以前から生活に必要なありとあらゆることを放棄していた。

狭義の生活(≃衣食住)に関する意味付けは、その生活の外側の生活によって輪郭を得て意味付けがなされる。世話を焼いてくれる女の子と生きているなら限界な生活も限界でない意味付けがされる。

何だか僕はあたかも喪失体験によって生活が限界になっているというような誤った物語を受け入れそうになっていた。けれども、僕の生活は以前と何も変わっていない。隣の部屋に住む陰茎とイスラム系テロリストを足して2で割ったような深い教養を備えたおっさんにはずっと前から30代で死ぬことを予言されていたのだった。僕自身も別に何も変わっていないということに気が付いて、生活の意味付けが更新される。

今日も生活を放棄して映画を見に行き、ネパール料理でも食べることにする。

おむつの私と雲のむこうの神様

だんだんと日が短くなったことが、朝の寒さで6時ころに起きた時の窓の外の薄暗さでわかる。通勤時、利根川を越える国道の橋から遠くに見える山にへばりついたスキー場からの呼び声が聞こえる。そうだ、もう年末だ。日々やるべきことや考えることたちの重みがt軸方向に垂直にかかることで、主観的な時間が圧縮されているのだと思う。何か仕事が多いとか別にそういうわけではないのだけれど、気が付くと一日が終わっている。

先日は忘年会があった。田舎なのでパワハラとかアルハラなどという先進的な単語がここには存在しない。今まで僕が生きてきた世界と何ら変わりがないので、居心地は良い。酒は注がれる前にコップを空にする必要があるし、乾杯は盃を乾かすの意味で、それでも社会人なので泥酔してはいけないし、学生ではないので吐くことも許されない。夜、リハビリ室をかりて鏡の前でバブリーダンスを練習する。もちろんサボることは論外だし、当然残業代はでない。これは仕事ではないが義務である。わたしはこれを楽しまなくてはいけない。(まあ実際ダイエットになるし全然良い。リハビリ室にある重りを手足につけて、グラップラー刃牙でオーガと戦う前に米軍基地でユリーと花山薫とアップする刃牙の気分を感じる。)忘年会の後、おむつを履いていることを忘れてそのまま勉強会に参加したので、講義をきく私のおまたはなんだかとってもしっかりとサポートされていて安心感があった。オム友募集中。

僕は信心深い方ではないのだが新年になると家から15キロほど離れたスキー場近くのブナ林がきれいな山奥にある神社に初詣に行く。手を合わせて何かを祈る機会は多くない。初詣の時と、登山口近くに神社がある時くらいだ。都合の良いタイプの信仰を持っているので、手を合わせた時だけカミサマが降臨して私の願いを聞き届けてくれることになっている。

ところで先日、ツイッターからツイッター開始から7年記念日ですよ、とお知らせが来ていたために、ツイッターを始めた時のことについて考えさせられることになった。確か、当時はmixiが廃れ始めたころだった。少しずつ、mixiユーザーがツイッターに移住を開始していた、SF映画で宇宙船で地球から逃げていく人々を地上から見送る人ってこんな気持ちなんだろうなと思った。mixiの存在価値は長文を書くことのできる日記だけになった。日記を書くと、少ない住人たちがたまにイイネをつけてくれる。体が悪く宇宙船に乗せてもらえなかった病人ばかりが残った星で行われるグループ療法だった。結局病人たちもそのうち宇宙船の切符をもらえるようになる。少しずつ、少しずつ、この星の住人は減っていく。そのうちグループ療法ができなくなった。

インターネット上に日記を書くという行為、不特定多数のだれかに日々の考えをそっと打ち明けるという行為は、だれでもない誰かに宛てたメッセージだ。僕はこんなことを普段考えているんです、ふだんはおちんちんの話しかしていないでしょう、でも僕は本当はこんな人で、こんな自分でも愛されたいんです、というメッセージに他ならない。

映画『処刑人』だっただろうか、協会で悪人の殺人について懺悔するのは。かみさまを持つ敬虔なタイプの人間は教会で「こんな私であるけれど、それでもやっぱり赦されたい」と思うんだなと。一方で年に数回、手を合わせた時にぽっと舞い降りてくれる僕の都合のいいかみさまは、やっぱりご利益も少ないんだろう、日々私の存在を認めてくれたりはしない。

いつもは服をきていても、たまにはオムツで出歩きたい。おむつの私も愛してほしい。けれども、いつもおむつを履いている自分を人前でさらすことがいけないことくらいは理解している。そう思いながらも回診中におむつを履いていることに気が付いた私は隣に立つ研修医を小突いて、ねえみて今日おむつなの、と言ってしまった。

おむつの私を愛してくれという思いの厚かましさの自覚は、誰でもない誰かへのメッセージとして発信されるしかない。ブログやSNSによって、存在と非存在の間を揺れ動く、理想的な聞き手に出会おうとする動機はそこにある。そんな時、twitterなどは教会にかわる。古典的な信仰を失った僕たちを救ってくれるのは、だれでもないだれかというあなたしかいないのである。そしてネットの雲の中にいて顔が見えないために、「あなた」はそこで神性を得る。人々を救う集合意識としての神の存在がインターネットに揺蕩っているとするならば、僕は相当に敬虔な信者だ。おそらく結構救われているのだろうね。

 今日も救われるために文章を書いている。

病気の話の続き

昨晩、夜中に一人エアコンの音だけがさみしく響く医局のデスクで当直の外来が途切れた時間に最近病気について思うことなど書いておりました。医学部に来たくなかったというのは、醜く薄暗く恥ずかしい優越感によるものの可能性があるという話、人を助けたいなんて大義名分は掲げていないけれど嫌がる高齢者にいわゆる正しい医療をすることが苦しい話、若い人は若い人で何かしら問題があって入院に至ることが多い印象だという話、けれども我々自身も完全にまともで生産的な人間じゃないし、連続性のある非まとも性や非生産性の中で、どこかに折り合いをつけて生きていかないと、素敵な人だけにやさしい社会は本当に生きにくいという話。

どこまでが病気がというのは非常に難しいなと感じている。夜中に救急外来にくる人はたいていメンタルの問題を抱えている。普通はちょっと何かがあるくらいで深夜に病院には来ない。不安で、腹が痛い、胸が痛い、何だか頭も痛い気がする、気持ち悪い、動悸がしてきた、ああ、息が苦しい、はあはあ、ううう手先がしびれてきたよ、もう死ぬのかもしれない、いや、死にませんよ。あるいは、知的障害があって何だかよくわからずにオーバードーズしてしまったり、何だかよくわからずに独歩可能なのに救急車を呼んでしまったりする。ほかにも、絶対に緊急性のない不眠なんていう主訴できたりするが、正常な判断力のある人間ならば、夜間の救急外来でかかりつけ医でも精神科医でもないのに不眠症にたいして適切な治療ができると思うはずがない。相当メンタルが限界でないとそんな選択肢はとらないだろう、自殺の前に最後に助けを求めに来ているなんて可能性もあるよと聞いてから、ひょっとしたら横で寝ているちょっと重症そうな肺炎や尿路感染のじじばばよりも明日死んでいるのはこの不眠症のおじさんなのかもしれないなと思うようになった。

明らかに自殺を考えているような状態なら別だけれど、(認知症だったり先天的だったりで)ちょっと頭が弱くて病状説明が理解できないとか、薬をきちんと飲めないとか、僕みたいにPHSを一日に何回もなくしているADHD諸氏とか、何かパーソナリティいけていなくてやたら話すときに偉そうだったり感情的だったりする人とか、これどこまでが病気なんだろうなというのは非常によく感じるんですよね。

もちろん腹立たしさを感じることは、特に睡眠不足の時にはないわけじゃない。訴訟のリスク回避のために患者満足度を下げることが許されないから、にこにこと対応しているけれどもね。でも、我々自身も不完全だからという理由で、不完全な患者たちに愛ある対応をするのは難しいですね。別に愛する必要なんてどこにもないんだけれど、指導医氏が普通に愛ある診療をしていると、僕は一体何なんだろうな、と少し引け目を感じてしまう。僕はいつも一歩はなれた立ち位置で一ミリも感情移入することなく、君はすでにとうに寿命を超えているんだ、責任をとりたくないあなたの家族によってこんな形で生かされていて大変だねえ、と思っている。

先日、医局のごみ箱に誰が飲んでいるのだか知らないが、ストラテラの空いたシートが捨てられているのが目についた。おっ仲間だね、わしもそろそろ飲もうかな。生活が限界。みんな自分の不完全性と戦っている。わしも、このひねくれがちな性格の不完全性とまともに向き合っていけたらいいな。不完全な自分をもう少しまっとうな形で受容できたならば(他人を理解しようなんて大それたことは思わないけれども)せめて疲れない程度に不完全な他人に接することができるんじゃないかな、ぼく。

病気の話

こんばんは当直です。外来が途切れた隙間に書き進めていきます。

 

突然ですが、働く前、僕の周りには「人を助けるためにお医者さんを目指しました」なんてことを表だって話す人はあまりいなかった。もちろん、何かを表明することは、何かを思っていることとは全然違うし、20歳前後のまだみずみずしい感性を持った学生たちにとって、そんなことを言うのは少し気恥ずかしかっただけなのかもしれない。むしろ、私のように何となくなってしまったタイプの人間の方が声が大きかったような気がするし、ひょっとしたらそれは会ったこともないけれどとてつもない熱意を医学部受験に向けているものの受からなかった人たちへの薄暗くて恥ずかしい優越感のせいかもしれない。

今は地方都市の200床に満たない中規模病院で研修しております。アンチバイオグラムが存在しなかったり、夜間の救急外来のおきぐすりには第三世代セファロスポリン系抗菌薬が置かれているくせに、第一世代セファロスポリン系が置かれていないために、嫌気性菌カバーの必要のない傷に対してもCVA/AMPCを処方するほかなかったり、看護師さんが一人しか救急外来にいないので、CPAが来ると救急隊員にも手伝ってもらわないといけなかったり、紙カルテだったり、SAHも脳梗塞も来るのに放射線技師さんは夜間当直していないので自宅から呼ばないといけなかったり、色々とはじめてのことや足りないところもいっぱいありつつも、自分が何かしら改善できるところが病院の中にあるので、それはそれで何だかやりがいを感じてしまう。指導医に言われた通りに電子カルテをクリックしているだけの研修もどうかなと思うし。何より、検査室が救急外来から近いので、検体とって2分あればグラム染色を確認できる。これが便利で偽痛風vs可能性関節炎とか、尿路感染や肺炎で緑膿菌カバーの必要があるかどうかとか、さっとわかるので良い。しかし感染症は興味がありつつも専門にするかと言われるとそれはそれで違うような……。感染対策とかしたくないし。

話がそれました。さて、小さな病院だからか、積極的な治療をしない人なんてのも結構いるんですね。たしかに、100歳近い認知ゴリゴリのじじばばが嫌がり泣き叫ぶのを押さえつけて検査して”正しい医療”を行うことがどこまで正しいのかよくわからない。というか正しくないとわかる。慢性期の高齢者に対してのCVC挿入を主治医から頼まれて隙間時間にいれるたびに患者家族教育の敗北を思っている。たいていCVC-TPNになるのは限界な人で、飯が食べられないのは認知症の進行ですべてがよくわからなくなているか、精査されていない悪性疾患の進行によって食欲がないとか、嚥下機能がおわってて、無限に誤嚥性肺炎しているとか、そんなところ。胃瘻に対しては、国が(?)ネガティブキャンペーンしたために乗り気な人が少ないのかもしれない。一方で、CVC-TPNでは点滴の延長みたいな印象で何となく決断できるのだろう。しかし、しかしねえ、どうせ唾液を誤嚥して肺炎になるし、本人は痛がるし、ただ呼吸して天井を眺めて、定期的に褥瘡をデブリされてうなり声をあげながら、糞便を垂れ流しているだけ。別に人を幸せにしようなんて、大義名分があって仕事しているわけじゃないけれど、だれかを苦しませるような仕事はしたくなかったな、なんて思うこともあるんです。そんなことを考えると、とたんにやる気がなくなってきてしまう。僕がやっているのは、宗教と介護の隙間に落ち込んでしまった人々なんですが、ここで必要なのは医療ではないんですよね。本来的に違う方法で介入しようとしているからうまくいかないんだなと思う。慢性心不全の急性増悪だと勘違いして、腎不全による溢水を治療していてなかなかよくならない、といった感じ。(いや、実際には心不全によるアウトプット低下による腎前性ではなく、うっけつによる腎機能低下だったりして、腎性であってもハンプとフロセミド持続静注でよくなることも経験されるか、あああ、わかりにくいたとえに)とにかく、ここに必要なのは僕ではなくて、坊主や牧師だなと思っている。死生観に向き合うことが全く僕の仕事に含まれていないとは思わないけれども、やっぱりそこに力を割いて医療者としてのプロフェッショナルな領域がおろそかになることが許されてはいけない。僕がここで地域包括ケア病棟などで診ている患者は病気ではない、と思っていた。

じゃあ、若い人はどうかというと、たいていは生活が限界で病院に全然かからないとか、かかれないとか、精神科疾患があって限界まで病院に来ないとか、境界ギリギリで誰にも支援されない知的障害者だとか、そういう人が多い印象。そうでもなければ生来健康な壮年のヒトは入院なんてなかなかしない。救急外来なんて、本当に社会の本当に底辺の人に出会ったりする、どうやって今まで生きてこれたの? みたいなね。これは別に大学病院の救急外来でもそんな感じだった。

最近、LGBTに生産性がないという発言が波紋を呼んだけれど、やっぱりヒトを生産性という軸でみる社会はつらい。生産性についての発言で対立を生む人自体も非生産的だし、多くの人は何らかの点で非生産性を持っている。非生産的なものを許せない社会は多くの人にとって生きにくいはずなのに、どういうわけか非生産的他人に厳しいのは自分の非生産性についての視点が欠けているんだろう。

病気も生産性もそうなんだけれど、これらは複数の軸を持つグラデーションになっているなと思うの。多くの人は不完全で、その不完全性の許容できなさによってそれを病気かどうかと認識している。不完全性や非生産性への理解が進むといいなと思うし、それは自分自身への内向きの視点の獲得の過程でもあると思うね。

僕のプロフェッショナリズムはここにはないなと思いながらも、限界な人々を見ていると、色々思うところもありますね、というお話でした。はあ、外来あんまり途切れなかった。きちんとまとめて書くはずだったんだけれども、もう二時になるから寝る、続きはいずれ。