ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

あなたはあなたが好きだから

昨日は意識の高い勉強会に参加していた。学生時代に最底辺学生をやっていた僕にとって、いわゆる意識の高い医学生というものは、どこか近寄りがたく、どちらかというと醒めた目で見てしまう方だった。

人生のアウトカムが生涯年収であるならば、医学部に来て進級に必要とされるライン以上の勉強をすることは愚である。安定した収入や将来のために何となく医学部に来た(=QOLと生涯年収に人生をささげた)人間が学問を究めようとすることは論理的一貫性に欠けている。ダブルスタンダードはいけない。医学を学生時代に究めようと欲するのは、勉強自体に何らかの快感を見いだすことのできる特殊な体質の人間だけ、そうでないのに勉学に勤しむ人間がいたら何と痛ましいことだろうか。前者の特殊なタイプの人間を僕は好きだがおそらく彼らは僕のことを軽蔑するために、痛ましい人間はお互いに軽蔑しあうために、どちらのタイプの勉強家とも僕は全く接することがなかった。

 

勉強会などで呼ばれる先生というのは、たいてい「声のでかい人」だ。彼らはアウトプットが好きな種族で、それは承認欲求の鬼であり、自分のことが大好きだということを意味する。

ひとりみになってから立派になりたいを連呼するようになり、暇になるとふとそのことについて考える。最近気が付いたのだが、立派性には2種類が存在している。ひとつは成果的立派性(条件的立派性)で、それは何らかの成果によって承認欲求を満たされており、自分が大好きでいる状態の人が自分で感じる立派性のことである。もう一つは無条件的立派性で、ただのウンココンバーター(飯をうんこに変換するだけの存在)にすぎないとしても、それでも尚そこに立派性が存すると他者に認めてもらえるタイプの具体的には何も観測できないいわば仮想の立派性である。ママ的愛などと換言しても良いだろう。

金銭を伴わない性交渉(をはじめとした異性(ポリコレ的観点からは同性でも)との接触)は後者の成立に大きく寄与している。後者の、無条件的立派性を失った人間は条件的立派性に頼らざるを得なくなる。私が立派であることを他者にむかって証明しつづけなくては、私の自己愛は砕け散り、はやくしなせてくれって状態になってしまう。

講演した先生は浪人中に失恋して精神が死んだ話をしていた。浪人による条件的立派性の喪失と失恋による無条件的立派性の喪失体験から、彼はおそらく条件的立派性の鬼にならざるを得なかったのだと僕は思う。

そういう目でイベントに参加したえらい先生や意識の高い学生たちをふと見やって、僕はなんだかいたたまれない気持ちになってきた。君たちがそんなにも意識が高く、そんなにも自分のことを大好きで、泳ぎ続けないとおぼれて死んでしまうのは、何も君ら自身せいではないのである。どこかの地点で自己愛が砕け散ったために、条件的立派性を追求せざるをえなかったのは、偶然によるところが大きいかもしれない。僕は意識の高い君たちが、どのような形から意識の高さを獲得したとしても、僕と同じようにぶざまさを抱えているように思えて、ちょっとだけ好きになれそうだ。たとえ意識が低くても君たちは愛されてよいはずなのであると僕が言ってあげることは、あまりにおこがましいことだと知ってはいるけれど。

けれども、そう思わなければ、僕は自分自身の非立派性に窒息して死んでしまう。花酒原酒60度を呷ってから、曇った意識の中「何者にも愛されない」とぶつぶつ言っていたことを覚えている。強迫的にまでなった立派性の追求からの脱却はできそうにない。つまり僕もまた一匹の自己愛の妖怪なのである。ママー!