ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

ポリクリと限界料理の話

 どちらかというと料理をする方だと思う。凝ったものは作らないけれど、ニンニク、脂、肉、トマトかクリームまたは豆乳にコンソメ、あるいは野菜とウェイパーなどを火にかけたりして雑な料理をつくってビールをすすりながら食べながら映画みるのが好きだ。一時、だしの素を使うことに批判的なツイートが物議をかもしたことがあった。楽できるものは楽しないと続かないよ、特に一人暮らしで自炊の利点が見えにくい場合はね、と僕は思う。

 最近一人暮らしを始めた。もう親にパソコンで何書いているの、とか訊かれないですむし、エッチな動画も堂々と部屋で見られる。今日の昼頃に洗濯機を設置してもらった。洗濯機、冷蔵庫、プロジェクター、シアターサウンドバー、AVアンプ+サブウーファー、シアタースクリーン、お気に入りの博物画3枚、先日の結婚式の引き出物でいただいたフライパン。2LDKで5万円、築28年4階建て鉄筋コンクリート、50平米くらいだったと思う。田舎なので物価が安い。目の前には行きつけの飲み屋がある。知っている土地だから新生活という感じはあまりしない。自炊なるべくしたいなと思うけれど、一人暮らしだと金銭的なお得感は見えにくいからそれ自体が楽しくないときっと続かないんだろうなと思う。好きなご飯を作って好きな酒のアテにして、好きな映画を観る、そんな生活ができたらいいけれど。

 

 僕が専攻医として残留している病院は比較的学生に手技をやらせてくれたり、学生が電子カルテのアカウントを持って患者を受け持ち、カルテを書く(指導医のカルテ記載が「学生のカルテを承認しました」の一言だけでその患者の記載が終わることもあるので大学とは少し異なる印象)、朝に採血当番があり病棟で採血をする、動脈血採血があると呼ばれて研修医に教えられながらとったりする、当直をすることができる、初診外来で問診をとらせる(僕は自分に余裕がある時は問診とらせているけれど人による)など、僕の今いる地方の大学のポリクリの中ではできることが多いようで実習に来る学生は基本的に意識が高いことが多い。意識の高い学生と僕が学生時代に接触することはあまりなかったし、冷めた目でみてしまう側だったけれど、教える側になってみると、やりたいことが明確なので、困ることは少ない。

 ここで書いたかどうか忘れたが、大学時代の実習は本当に苦痛だった。わけのわからない内視鏡の画像を延々と見せ続けられ特に解説はされず発達圏の指導医に邪魔だどけと言われ、文体がきにくわなかったようで発達がアレなのでご丁寧に助動詞やいいまわしを赤ペンで一つ一つなおしてくる、あるいは指導する気がまるでなさそうな画像診断医のもとでもくもくとCTを読む(※)。意識の高い一部の学生たちはそれでもすし職人のごとく(すし職人修行が実際どんな感じなのだか僕は知らないけれど)真面目に見学したり調べたりしていたが、僕は非生産性を憎んでいるので、このスタイルは意味がないなと思って、また勉強しても給料増えないし、訴訟リスクがあるわけでもなく、何一つ利益がないなと判断して、カンファレンスの時間は大抵二日酔いでゲロとアルデヒドの香りを放ちながら椅子で爆睡していた。

 最近になってきたポリクリ学生が久しぶりにやる気のない側の人間で少し親近感がわく。学生と同じチームの4年目の先生は極めて立派なので(初診外来に健康状態の悪い外国人の農業実習生が多いから実態調査をしたいなどと言っており感心した、立派だ)、教育熱心だがあんまりやる気のない人間にどう接したら良いかよくわからなくて教育に関するモチベーションが燃え尽きそうみたいな話をしていた。僕もっとひどかったですよと言ってもマタマターいう感じであまり真に受けてくれない。働いてからは訴訟が怖いのと、イケてない医療をしている自分というのが自己肯定感をゴリゴリ削いでいくのが嫌で勉強しているだけなんだ。

 学生時代は勉強することのメリットが見えにくかった。医学自体が僕にとって非常につまらない学問だったし、その面白さを伝えてくれる人もいなかった。例えば、抄読会である薬が効果があるかどうかのRCTを読んで和訳して発表するが、それで終わりで、どう批判的に吟味するかといったことは全く教えられなかった。(自分で勉強しろというのは尤もだけれども、大学病院は教育の役割を担っていることを忘れてほしくない。)RCTでこっちが正しいという話になりました。はい、おしまい、で、実際の臨床における正しさみたいなものについて考える機会は全くなかった。本来であれば、特定の患者を診る時に出てきた疑問に答えるべくガイドラインを調べてみて、そのガイドラインの一次文献の論文にあたり、それを批判的に吟味したうえで目の前の患者の治療方針の妥当性を検証するべきである。それなら知性を要求される運動だがどっちの薬がより効くといった論文を読んでへえそうなんですねと無批判に受け入れるだけの一部居眠りしている人のいる抄読会は本当に生産性がないし、生産性がないことを仕事にするのは頭が弱い。診療に知性はいらないからおつむの弱い意識の高い田舎の小金持ちの無産階級が奴隷になって医者をやっていればいいじゃないの、僕は貴族になりたいよ、で草原を買って城のまわりで羊を飼って暮らすんだ。実習中にはそれしか思わなかった。

 教育というのはなかなか難しくて、ともすれば価値観の押し付けになりがちで、相手を想像するときにどうしても自分を出発点に考えがちだ。意識の低い学生が僕とは全く違う形で意識が低い可能性や、意識が実は高いのに発達に問題があってそのアウトプットの技術に難があるだけの可能性だって十分にあって、色々想定するけれど、それでもなお考慮されないケースがあることを常に考慮しなくてはならない。想像力の地平線の向こう側にも世界があることを、見えなくても存在を想像する必要がある。すし職人が教育の理論を知らないように医師の多くもまた教育についての知識を持たない。非生産的な教育が行われて、形ばかりアメリカに追従して長い実習期間になって多くの医学生が誰かのオナニーの犠牲者になっているという印象すら受ける。オナニーしたければオナクラに行けばよいのだ。

 今日は豚肉300グラムをフライパンで炒めていたら、机の上に先日購入したイナバのグリーンカレー(絶品である)を発見した。豚肉のグリーンカレーもあるにはあるはずなので、ご飯のかわりにグリーンカレーをフライパン上で肉に絡めて食べたら当然神々の食べ物が誕生した。自炊なんてこのくらいで良いよなと思う。自炊のハードルが高くなると、そもそもやる気がなくなるし、人によって自炊へのモチベーションも違うもんな、など。ただ好きなものを好きな時間に食べるのは結構素敵だ、夜にほろ酔いで巨大な肉を焼いたり、チーズイン卵焼きを作ったり、ニンニクと鯖缶とトマト缶とコンソメを混ぜて鯖のトマト煮込みを作ったりできると限界酒徒のQOLが向上する。

 モチベーションに寄り添える人になれたらいいなと思う。ちなみに僕がグリーンカレー豚肉を食べる時に隣でビール飲みながら生きてていいんだよと言って寄り添ってくれる素敵なおねえさんは引き続き募集中だ。

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※5年生の時に実習が苦痛すぎて書いた文章を発掘したので貼っておく

 港町の中心部から3キロほど離れた(家から120キロ離れた)600床強のN病院での5週間にわたる過酷な放射線科実習もあと数日で終わると思うと心が軽くなる。何一つやることがないのにも関わらず八時半に集合し、それから午後五時まで「昼休み適当にとって 」と「今日は終わりにしましょう」以外に指導医とほとんど会話をしない、薄暗い読影室での実習は、まさに心の修行以外の何物でもなかった。(若手の先生は時たま課題をくれたり、会話を振ってくれたりするのだが……)
 パソコンの前に座らされて「まあ適当に画像見ていて」と言われたところで、適当に画像を見ていて毎日8時間潰せるような人間がいたら、それは頭の病気だ。何かしら、読影しなければいけない画像があり、必要に迫られて、この画像にどんな所見があるのか探し、教科書をめくって、鑑別疾患を挙げていく……という流れがあって、初めてできる作業ではないのか。あと、お給料。
 数日経って「画像を適当に見ていて」というのは指導ではないし、学生の指導は好むと好まざるとにかかわらず、そしてそんな暇があるかどうかにかかわらず、指導医の義務であるし、義務を果たしていない指導医は、学生としての義務を果たさない実習中に勉強しない学生を叱る権利も持ち合わせてはいないのだ、ということに気付いた。それからは卒業試験の問題を持っていき、ひたすらイヤーノートで解答を作っていく日々が始まったわけだが、この作業自体は決して過酷なものではなかった。というのも、勿論、勉強に集中し続けることも困難だから、という理由で、読書と平行して作業を行っていたからだ。
 僕の精神を最もすり減らしたのは、このきわめて明快で論理的な解決策に至るまでの理路を指導医が全く理解していない可能性についても考慮せねばならないことだった。その時僕は50代半ばの疲れ切った目をしたえらい先生に「あなたが指導しないから、僕も勉強していない、お互いに義務を果たしていないなら、それでいいじゃないですか、何を怒っているんです?」と言えるのだろうか。勿論答えはNOだ。自分が考えた、自分の正しいと思うことを、相手がいつも理解しているとは限らないのだ、ということと、色々な可能性を考慮しつつ相手の気分を害さないこと、が大切だと分かる程度には僕も大人である。
  これらの考えから、僕は言われた通り「適当に画像を見ている」風を装いながら、隅っこで小さく卒試の勉強をし、また読書をする、という折衷ポイントに軟着陸をすることにした。勿論、実際に指導医に「画像を見ているな」と思わせることが目的ではない。「少なくとも適当に画像を見ているように思わせる努力はしているのだな」と思わせることが目的だ。このあたりに気を回すのに非常に参った。時には「なんと不真面目な学生だ!」と思われているのではないかと勝手に考え、いっそのこと堂々とサボるのもアリなのでは、と葛藤したけれど、理性ある人間は強い忍耐力を持った人間だ。僕はそういう人間になって、モテモテになる。(筆者注:このころは彼女がいたはずである)
 そして、とうとう寿司は食えずじまい。外科を選べば朝四時くらいまで飲み会を連日開催してもらえたらしいのだが、ううむ。今更いっても遅い。また、指導医はこの病院の研修医の採用担当のトップなので、僕はこの病院で働くことはできないでしょう。


 次の実習1か月が最後の実習になる、と考えると、長かったなあの感がある。 本当にこんなに長期間(一年半)の実習が必要だったの? 実習が長引いたせいで、座学の日数(コマ数ではないらしい)が足りないため、半日だけの講義を長くとって休みを削ってまで、本当に必要だったの? 卒業してから、実習の期間がちょっと長かったからって、何か得するの? そして、その得って、二度と帰っては来ないエネルギッシュな20代前半を、その時しかできない娯楽に打ち込むよりも本当に大きいの? と、まあ、不満は絶えない。そして、高校から抱き続けていた「僕がなりたいのは、立派なお医者でなくて、満ち足りた人生を送る人だ」という思想は結局こんなに長く実習を続けていて、楽しそうに、あるいは死んだ魚のような目をしながら臨床戦士をやっている先生方を見ても、まったく揺らぐことはなかった。
 最近は、将来ニュージーランドあたりで牧羊をしながら、酒を飲み映画を見て読書する生活を送るために、英語の勉強を始めた。もっと身近な夢が欲しい。