ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

動く幸せ

 今年はインフルエンザワクチンを打ちたい人が異様に多い。みんなが手洗い・マスクをして風邪症状があったら仕事を休むという状況が続く時にインフルエンザの流行が起こるのかというと疑問だ。現に南半球では流行がなかったという話も聞く。COVID-19罹患するのが心配なので、というのは理論として破綻している。そういう人は自動車事故が心配だと火災保険に入るのだろうか。まー本人が満足ならそれでよいか。

 先日アパートのポストのうち一つが破裂しそうだったので、だれか退去した人がいるのかなと思っていたら自分の部屋番号だった。中に一時話題になっていたアベノマスクとやらが入っていてやっと時流に乗れた気分。わーい。

 そういえばアベノマスクはいらない! というアンチの方々が知的障害者施設にマスクを送るニュースを以前にみかけた。もらった側の気持ちはよくわからない。自分のイデオロギーに反しているから不要であり、さらに他人にとってどれほど有用なのかよくわからないものを送り付ける行為には子供っぽい身勝手さを感じる。しかも政治的信条などはないだろうということで(?)知的障害者を贈り先に指名することがまたまた一層気持ち悪さを助長する。また、そのマスクをもらうに至った経緯が理解できないけれど、何となくマスクをもらってありがたい的な気持ちに彼らの一部でもなっているのかもと思うと、思考能力と幸福の感覚というのはてんでばらばらに独立した因子のようだ。

 そういえば、インフルエンザ予防接種を受ける人が多いので、例年には受けない人も混ざっている。僕は総合診療医なので、吐息がタバコくさくて痰がらみのある人にはよく風邪ひくと長引きませんかとかCOPDっぽさを何となくスクリーニングして次回につなげている。肺炎球菌ワクチンを打ってない人もいる。今年の予防接種外来は普段外来に現れない人も来てくれているのである意味健診としては良い機会になっていて、収縮期心雑音とか下肢浮腫とか労作時呼吸困難とかをひっかけて外来受診を促している。

 本人が幸せならば、なんて言うし僕も他人の人生に干渉するのは好きじゃないから結構好きに酒のんで死んだらいいと思っているんだけれど、思考の立ち位置が永遠にずれないのか、ということをたまに考える。喫煙してラーメンはスープまで飲んで早死に上等の高齢者が初孫ができても同じ気持ちなのだろうか、早死に上等といいながら脳卒中になって片麻痺車いすで10年生きることを想定しているのだろうか、など。

 他人の無知にフリーライドすれば仕事は減る。薬くださいと言えば出せばよいし、禁酒する気がないというなら放置したらよい。でもそういう割り切りの先に自己肯定感があるとも思えないんだよね。そして私も今の自分の立ち位置にずっといるわけではないんだよな、と思う。

 高校生の頃に看護師になりたくないと言っていた妹は、現在勉学に励んでこなかったのに、都内でそこそこの生活をしたいと思ったときに看護師資格は役に立つし結局良かったなどと話していた。(あと自分で適正があると思っているとのこと。適正があると思えることは良いよね。僕も今の仕事は適正があるように思う。ネチネチ考え続けること得意だし。)

 ADHDの子どもたちの診療をするようになった。はじめての処方はアトモキセチン。僕が飲みたいんだけれど、本当は。大人になると、僕も含めて衝動性や多動性が少しずつ落ち着いていく。注意欠陥が残ってもなくしても良いようにリスク管理を重視することで社会生活に適応したりしていく。

 立ち位置から少しずつ動いてくのだ。そう、部屋に置いた車の鍵も朝にいつも見つからない。しかし、あれはどうやって移動しているのだろうか。