ぶたびより

酒を飲み、飯を食べ、文を書き、正解を生きたい

娘を助けてママみを求むるノワール

「私が欲しいのは愛か死よ!」

ショートボブの小枝みたいな体をした大人びた容姿の破滅的な少女(マチルダナタリー・ポートマン)が武者小路実篤の小説でも読んだのかそんなことを叫ぶシーンがある。映画『レオン』のワンシーンです。当時この映画の影響でこの女の子の髪型が流行ったという話も聞く。根無し草の無口な殺し屋のおっさんがいつも植木鉢の植物を持ち歩いていて(※1)、家族を失った少女(※2)と行動を共にするストーリーであり、何というか、こう、非常に良いんですね。ところでこれのエンディングの曲(shape of my heart)は最近何か別の映画で使われていたような気もしたのだが思い出せない。何だったかな。

少女あるいは少女らしさを残した若い女性と影のある強い中年男性のからみを主題とした映画というのは、思いつくだけでも結構たくさんある。『96時間』では元CIA工作員の実父が娘(離婚して疎遠)を救うためにパリの街でマフィアを殺す。『イコライザー』では同じく元CIA工作員のおっさんがダイナーで毎晩同じ時間に現れる女の子と心を通わせ、彼女を守るためにマフィアを殺す(※3)。韓国ノワール映画の傑作『アジョシ』では近所の報われない子供と仲良くなった元特殊部隊のおっさんが少女を救うためにマフィアと戦う。『96時間』に関しては『レオン』の監督であるリュック・ベッソンが一枚かんでいるので、近い系統なのは当然なのかもしれない。とにかくこのタイプの映画をたまに見かけるのだけれど(そして結構好きなのだけれど)、これら一連のグループの呼び名を知らない。

一定数似たような筋書きの映画が存在するということは、社会的なニーズがそこに存在することを意味する。これらの映画群のターゲットが誰なのか知らないけれど、オッサンがターゲットなのだとしたら、オッサンたちは「影があって、何らかの特殊能力があり、それによって若い女性の力になる人になる」ことが快感なのだ、とストレートに解釈したくなってしまう。

中学校の頃に、教室に入ってきたテロリストを特殊能力をもったわたしが倒すことでヒーローに、といった妄想をするのはお決まりのパターンのようである。それは僕らが中学生の頃にアルカイダがどうとかいう話が真っ盛りだったのもあるかもしれない。けれども、おっさんになっても、本質的には何も僕ら(のなかの一部の人々)は成長していなくて、いつも若くてか弱い女性を特殊能力で守って愛されたいと願っている、そんなふうに感じてしまう。

作家が同じような部位ばかりつつきまわしたくなるように、受け取り手も同じようなところばかりつつきまわされたくなるのかもしれない。たまに自分の娯楽の嗜好について考えると、自分が自分自身でも意識しない状態で何を求めているのかについて考えさせられることになる。

 

※1 持ち歩いている植木鉢は根無し草である自分自身の境遇である。そういえば僕の好きな『ホットファズ』でも主人公が植木鉢を大切そうに抱えている。『ホットファズ』は優秀すぎる警察官が優秀すぎて疎まれて平和な田舎町に左遷させられる話である。何か関係があるのか、あるいは植木鉢に入った観葉植物が常に何かを明示する小道具として現代の映画で使われているのかもしれないが、この辺りの文法を僕は知らない。

※2『レオン』に出てくるヒロインの少女マチルダたまに本質的なことを話す。植木鉢に入った植物も、地面に植えればそこに根をはるよ、なんてことを言う。一時、twitterで真理を話すマックの女子高生が話題になった。もちろん創作だろうけれど、創作において男子高校生でもなく、認知症老人でもなく、女子高生が真理を語ることに僕は意味があると思う。『レオン』みて喜んでいる層と真理を語る女子高生が好きな層がどれほどかぶっているのかは知らないけれど、ひょっとしたらコインの裏表みたいなものなんじゃないかなと感じている。なかなかうまく説明できないんだけれど、自分がか弱い女の子に何かしてあげたい一方で、その女の子に本質的なことを言われて心の堅いところを打ち砕いてほしいと思うのは、少なくとも矛盾はしない。保護を与えることが好きなおっさんは、相手が与えているものに無自覚なまま何かを与えてもらいたいのではないかな。パパになりたい一方で、ママみを求めているというとしっくりくるかな。

※3イコライザー』に出てくるダイナーを観て、真っ先に思い浮かんだのはエドワード・ホッパーの「ナイトホークス」である。安っぽいレストランで静かな夜に無関係な人々が飯を食べているだけの絵であるのだが、強烈な物語性を感じてしまう。これはこの絵自体の話ではなくて、この雰囲気から派生した一連の映画群によって僕が育ったからなのかもしれない。wikipediaを流し読みしてみると、リドリー・スコットが『ブレードランナー』を撮影するときにこんな感じの雰囲気で、と指定したり、そもそもエドワード・ホッパー自体がシネフィルだったり、フィルムノワールの先駆けになっているなんて記載もあった